Persona Non Grata ou Sha Nagba Imuru

─ヴォルテール

Seibun Satow

 

「うんざりさせるための秘訣は、なんでもかんでもしゃべることである」。

ヴォルテール

「自己矛盾というスキャンダル 私はあなたの味方で、あなたの敵 心は光を浴びてあなたの味方、血管の奥底はあなたの敵」。

ピエール・パオロ・パゾリーニ『グラムシの遺灰』

“’O mariuolo’o porta scritto’nfronte“.

ナポリの諺

 

Cher François Marie Arouet

 突然の手紙の御無礼を御許しください。おそらく世界各地から、毎日、かなりの数のメールが届いていることと思います。目を通す以前に、ダウンロードするだけでも相当の時間を費やしていることでしょう。このメールが御手数をおかけして、御迷惑になることは申し訳ないのですが、今日の世界の動向について、いかが思っていらっしゃるのかを御聞きしたくこうした次第です。

 アメリカ自由人権協会(ACLU: American Civil Liberties Union)とヒューマン・ライツ・ウオッチ(Human Rights Watch)は、二〇〇五年六月二七日、二〇〇一年九月一一日の同時多発テロの後の捜査の際、司法当局が少なくとも七〇人の男性を「重要証人法」に基づいて国内で逮捕し、罪状もなしに長期間も拘束していたと公表しています。拘束期間は二ヵ月程度が約三分の一を占めていますが、数ヶ月に及ぶケースもあります。彼らは、一人を除いて、イスラム教徒です。テロ関連容疑によりその後正式に逮捕されたのは七人だけで、四二人は釈放され、少なくとも、一三人に対してはFBIまたは司法省の誤認逮捕だったと見られています。 この法律は、入管当局が密入国組織をめぐる証言を密入国の容疑者に求めるために、一九八四年に制定され、本来、犯罪捜査上の重要証人で、裁判所が召喚した際に逃亡の恐れがあると判断されたときにのみ適用されるものです。ACLUによると、FBIがこの法律を根拠に逮捕したのは二〇〇〇年に年間二四人だったのが、二〇〇二年には一二三人に達しています。当局は、明らかに、この法律を拡大適用しているのです。”Yesterday’s avant-garde experiment is today’s chic and tommorow’s cliche"(Richard HofsterAnti-Intellectualism in American Life").

 このような懸念が生まれるのも無理からぬ背景はあります。バリ島やマドリード、ロンドンなどで起きたイスラム主義者による爆弾テロは世界を震撼させています。しかし、テロが活発化するのは、それを育てる環境があるからです。環境が改善すれば、成長することはありません。そもそも、ロンドンの場合、実行犯はイギリス国籍の若者たちです。それは外から流入してきた極端な思想がそうした土壌に浸透した結果でしょう。被害者にはイスラム教徒も含まれています。イギリス当局は、言うまでもなく、テロリスムに強硬策だけをとっているわけではありません。英国人はそこまで短絡的ではないのです。無数のテロ計画を阻止すると同時に、国内のイスラム穏健派と連携し、イスラム教徒の不満や意見を緩和しようと試みています。イスラム教徒もイギリスを構成する市民の一人なのです。「空っぽの腸が大声でがなりたてると、良心や名誉心のかぼそい声はかき消されてしまう」(ドニ・ディドロ『ラモーの甥(Le neveu de Rameau)』)。

 こうした状況は私たちにあの名前を思い起こさせずにはいられません。ヴォルテール(Voltaire)です、もちろん。「フェルネの長老(Patriarche de Ferney)」は悲劇『マホメット(Mahomet) (一七四一)を書き、イスラム教に好意的ですが、それだけではありません。御存知の通り、一七六二年、旧教徒に改宗しようとしていた息子マルク=アントン(Marc-Antoine)を殺害した容疑で、車刑された新教徒ジャン・カラス(Jean Calas)の無実を証明すべく、活動し、形成されたばかりの「公衆(public éclairé)」に訴え、一七六五年、参事院によるカラス一家の名誉回復を勝ちとっています。言うまでもなく、自分の主張を有利にするために、でっちあげも画策しています。これは別に問題ではありません。やわな現代とは違うのです。公衆こそが唯一の裁判官だと言っています。ドレフュス事件のエミール・ゾラやハリケーン事件のボブ・ディランといった不正と闘う知識人の源流でしょう。ヴォルテールがもし生きていたら、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の『ハリケーン(Hurricane)』のような曲をつくったかもしれません。

 

Pistol shots ring out in the barroom night

Enter Patty Valentine from the upper hall.

She sees the bartender in a pool of blood,

Cries out, "My God, they killed them all!"

Here comes the story of the Hurricane,

The man the authorities came to blame

For somethin' that he never done.

Put in a prison cell, but one time he could-a been

The champion of the world.

 

Three bodies lyin' there does Patty see

And another man named Bello, movin' around mysteriously.

"I didn't do it," he says, and he throws up his hands

"I was only robbin' the register, I hope you understand.

I saw them leavin'," he says, and he stops

"One of us had better call up the cops."

And so Patty calls the cops

And they arrive on the scene with their red lights flashin'

In the hot New Jersey night.

 

Meanwhile, far away in another part of town

Rubin Carter and a couple of friends are drivin' around.

Number one contender for the middleweight crown

Had no idea what kinda shit was about to go down

When a cop pulled him over to the side of the road

Just like the time before and the time before that.

In Paterson that's just the way things go.

If you're black you might as well not show up on the street

'Less you wanna draw the heat.

 

Alfred Bello had a partner and he had a rap for the cops.

Him and Arthur Dexter Bradley were just out prowlin' around

He said, "I saw two men runnin' out, they looked like middleweights

They jumped into a white car with out-of-state plates."

And Miss Patty Valentine just nodded her head.

Cop said, "Wait a minute, boys, this one's not dead"

So they took him to the infirmary

And though this man could hardly see

They told him that he could identify the guilty men.

 

Four in the mornin' and they haul Rubin in,

Take him to the hospital and they bring him upstairs.

The wounded man looks up through his one dyin' eye

Says, "Wha'd you bring him in here for? He ain't the guy!"

Yes, here's the story of the Hurricane,

The man the authorities came to blame

For somethin' that he never done.

Put in a prison cell, but one time he could-a been

The champion of the world.

 

Four months later, the ghettos are in flame,

Rubin's in South America, fightin' for his name

While Arthur Dexter Bradley's still in the robbery game

And the cops are puttin' the screws to him, lookin' for somebody to blame.

"Remember that murder that happened in a bar?"

"Remember you said you saw the getaway car?"

"You think you'd like to play ball with the law?"

"Think it might-a been that fighter that you saw runnin' that night?"

"Don't forget that you are white."

 

Arthur Dexter Bradley said, "I'm really not sure."

Cops said, "A poor boy like you could use a break

We got you for the motel job and we're talkin' to your friend Bello

Now you don't wanta have to go back to jail, be a nice fellow.

You'll be doin' society a favor.

That sonofabitch is brave and gettin' braver.

We want to put his ass in stir

We want to pin this triple murder on him

He ain't no Gentleman Jim."

 

Rubin could take a man out with just one punch

But he never did like to talk about it all that much.

It's my work, he'd say, and I do it for pay

And when it's over I'd just as soon go on my way

Up to some paradise

Where the trout streams flow and the air is nice

And ride a horse along a trail.

But then they took him to the jailhouse

Where they try to turn a man into a mouse.

 

All of Rubin's cards were marked in advance

The trial was a pig-circus, he never had a chance.

The judge made Rubin's witnesses drunkards from the slums

To the white folks who watched he was a revolutionary bum

And to the black folks he was just a crazy nigger.

No one doubted that he pulled the trigger.

And though they could not produce the gun,

The D.A. said he was the one who did the deed

And the all-white jury agreed.

 

Rubin Carter was falsely tried.

The crime was murder "one," guess who testified?

Bello and Bradley and they both baldly lied

And the newspapers, they all went along for the ride.

How can the life of such a man

Be in the palm of some fool's hand?

To see him obviously framed

Couldn't help but make me feel ashamed to live in a land

Where justice is a game.

 

Now all the criminals in their coats and their ties

Are free to drink martinis and watch the sun rise

While Rubin sits like Buddha in a ten-foot cell

An innocent man in a living hell.

That's the story of the Hurricane,

But it won't be over till they clear his name

And give him back the time he's done.

Put in a prison cell, but one time he could-a been

The champion of the world.

 

 「カラス事件(Affaire Calas)」において、Ecrasez l’infme!”と旧教徒の警察・司法を弾劾したヴォルテールは、二〇〇四年のアカデミー賞の授賞式で、ジョージ・W・ブッシュ大統領に向けて、”Shame on yourself!”と叫んだマイケル・ムーア(Michael Moore)監督に近いのです。

 一九八九年に亡くなったイギリスの論理実証主義者アルフレッド・J・エイヤー(Alfred Jules Ayer)博士は、『ヴォルテール(Voltaire)(一九八七)において、現代でのヴォルテール的精神の意義について次のように述べています。

 

 だがキリスト教の迷信に対するもっとも効果的な攻撃は十九世紀の科学上の諸発見によって加えられたのである。この点では、われわれがヴォルテールに負っている恩義はライエル、トマス・ハックスレー、チャールズ・ダーウィンといった科学者ほどには大きくない。

きわめて率直に言えば、英国国教会牧師がいとも簡単に科学思想に彼らの見解を順応させてしまったことにまるめこまれたイギリスの自由思想家たちは、ヴォルテールの攻撃を呼び起こした弊害についてもうなんら心配する必要などないと思ってしまったのである。だが、これは視野の限られた判断といえるだろう。われわれがより遠くに目を向け、アメリカ合衆国でのファンダメンタリズムの再発、中東での宗教的狂信の恐怖、頑固な政治的不寛容ゆえに全世界に見られるすさまじい危険といった事柄に気付くとき、こう結論せざるを得ない。ヴォルテールの明快さ、洞察力、知的誠実さ、精神的勇気を手本にすることによって、われわれはなお学ぶところがある、と。

 

 『歴史のピルロニスム(Histoire du Parlement)(一七六九)の中で「私は極端な懐疑も愚劣な軽震も望まない」と記す一六九四年一一月二一日パリに生まれた裕福なパリの商人の息子は「アメリカ合衆国でのファンダメンタリズムの再発、中東での宗教的狂信の恐怖、頑固な政治的不寛容」には怒りを抑えられないでしょう。近代に入って、神は死んだはずなのに、昨今では、盲信者や狂信者が幅をきかせ、神が復活してしまったようです。より正確には、神の死は決定不能になっているのです。ヴォルテールの『哲学書簡』によると、自然の声、すなわち理性は人間に次のように語ります。「おまえたちは力弱い者であるから、互いに助け合わなければならない。おまえたちは無知なのだから、互いに啓発し合わなければならない。おまえたちが全員同じ意見であれば、そのような事態はとうていあり得ぬのだが、その時にはたとえたった一人が意見を異にしてもおまえたちはその一人を許さなければならない。なぜなら、この者にそのように考えさせたのはほかならぬこの私なのである」。意見を異にするものが訪れるのは理性が人間を試し、その力の弱さと無知を思い起こさせるためです。

 ヴォルテールの実践活動は、確かに、アメリカ合衆国の独立やフランス革命の理念の重要な確立者の一人であり、キリスト教の迷信を糾弾することに関しては、一九世紀の自然科学者の業績には及ばないものの、ローマ・カトリック教会の勢力を弱めています。ヴォルテールはキリスト教を罵倒しますが、無神論者ではありません。彼が亡くなったとき、ザルツブルク出身の天才音楽家は「あの無神論者の大悪党がまるで犬畜生のようにくたばったのは、天罰覿面だ」と毒づいていますけれども、「哲学の第一歩は、何ごとも軽々しく信じないことだ」と遺言したドニ・ディドロと違い、理神論者です。ただ、彼の理神論は既存の宗教とは合致しません。古典主義時代では神は瀕死ではあっても、まだ死んでいないのです。宗教にとって、神は、必ずしも、不可欠ではありません。アフリカには、神の存在を信じていないガーナのアカン人のように、神を信仰しない民族も多く、仏教は神なき宗教です。ヴォルテールの批判の方が無神論者よりも保守的な人々を怒らせています。人格神を否定し、『聖書』の矛盾点を批判して、しつこく聖職者の制度や素行を暴露しています。「わが国の坊主どもは愚かな民衆が考えるような代物ではない」(ヴォルテール『エディプ』)

 ヴォルテールは、『哲学辞典(Dictionnaire philosophique portatif)(一七六四)において、三位一体について次のように書いています。

 

三つのものは何かとたずねられたとき、人間の言葉は舌足らずで、表現力にわれわれは不足している。しかしながら三つのペルソナを口に出すのは、何か意味のあることを言おうというものではなく、黙っているよりはしゃべっているほうがましだからである。

 

 解答ではなく、疑問の宝庫として書いたとヴォルテール本人が言うこの書物はありとあらゆる物事や人物を攻撃しており、著作の中で、最も敵をつくり出しています。一七七八年五月三〇日、当時としては驚異的な八三歳でそのヴァイタリティ溢れる生涯を閉じた際、よほど腹にすえかねていたらしく、サン=シュルピス教会の司祭は埋葬を拒否し、オーブ県のセリエール修道院の教会に運ばれています。quem di diligunt juvenis moritur(神々が愛するものは若くして死ぬ)”(Menandros).

 また、ヴォルテールは演劇『エディプ(Œdipe)(一七一八)で近親相姦的愛、小説『自然児(L'Ingénu)(一七六七)の中では女性の性的衝動を描いていますが、それは世間の偶像としての道徳を批判するためです。彼は、寛容さを説きながらも、穏やかさからほど遠く、権威を挑発し続け、饒舌で、短気、激情家です。平明簡潔なコントから辛辣な風刺、戦闘的な弾劾文まで、ヴォルテールは、目的に応じて多彩な形式と文体とを使い分けていますが、彼の人となりもその文体と同じく、また、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)他の啓蒙主義者にありがちな、多面的で複雑です。啓蒙主義者から見れば、現代人はあまりの薄っぺらです。二〇世紀の人間ときたら、好奇心は、ネズミが餌をついばむ如く、狭くて、精神的な襞は日本人の選択ほど単調でしかありません。啓蒙主義者は若き衝動的な熱血漢ではなく、したたかで食えない老人たちなのです。反教権主義の闘士であっても、無神論には与せず、自由な言論を圧迫する専制政治を攻撃しながらも、ときに積極的に権力に接近して専制君主に改革の希望を託すのです。同時代においてさえ、ヴォルテールを疑り深く目ざとい意地悪な皮肉屋と見る人もいれば、心広く情熱的で涙もろい人物と考える人もいるのです。ジャン・スタロバンスキー(Jean Starobinski)博士は、『病のうちなる治療薬(Le Remède dans le mal)(一九八九)において、「ヴォルテールの二連発銃」という章で、ヴォルテール作品の二重性を指摘していますけれども、むしろ、それは一八世紀自身の特徴であり、作者本人にふさわしいでしょう。この激しい複雑な性格のため、多くの知識人と不仲になっています。特に、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)とは生涯に亘って犬猿の仲です。

 彼は、『人間不平等気言論(Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes)』を献呈されたとき、一七五五年八月三〇日付で、ルソーに宛てて次のような皮肉たっぷりの礼状を送っています。

 

あなたの著作を読むと、ひとは四つ足で歩きたくなります。けれども、私はその習慣をなくしてから六十年以上にもなりますので、あいにくその習慣に戻ることは不可能に感じられます。それに、その自然な歩き方は、あなたや私よりもそれにふさわしい者たちにまかせてあります。私もまた、カナダの未開人を見つけに、船で出かけることができません。第一に、かかっている病気のために、ヨーロッパの医者が一人、私にはどうしても必要ですし、第二に、あの国に戦争がもちこまれているからです。それに、われわれ諸国民の先例が、未開人たちをほとんどわれわれ同様に邪悪にしてしまったからです。私はあなたが世が世なら住んでおられるはずのあなたの祖国のすぐ傍に自分で択んだ孤独のうちに、平和の未開人たることに甘んじます。

私もあなたとともに、文芸や学問が時として多くの害悪を生じたことを認めます。

 

 もっとも、ルソーは、ヴォルテールのみならず、ディドロやダランベールとも喧嘩になっています。「『啓蒙』というと、今の日本の語感では、なにか即席の知識をひろめるようだし、『百科全書』というと、雑多な知識の集積を連想させるかもしれないが、十九世紀専門主義以前のそれは、むしろ、《何でも知ってやろう》という知的貪欲さに裏付けられていた。自分が女好きなくせに『つつましやかさ』を説いてサロンから疎外されていたルソーが、この一派と絶交したのも自然なことである」(森毅『女たちの森の中で─ダランベール』)。一七九一年七月一一日、国民議会の決議により、ヴォルテールの遺骸はパンテオンに移されたのですが、そのジャン=ジャックも一緒に葬られています。

 しかも、ヴォルテールは、『寛容論(Traite sur la tolerance,)(一七六三)においてさえも、『聖書』を嘲笑し、さらに、イエズス会士が日本や中国から追放された理由は、宣教師たちが宗教的不寛容を誇示したためだと言っています。「寛容を受けるに値するためには、まず人は狂信の徒であることをやめることから始めなければならない」(『寛容論』)。寛容にも限界があるということです。ヴォルテールはヨーロッパの精神史上最大の批判精神の持ち主の一人です。ロバート・バートン(Robert Burton)は「ペンは剣より残忍なり(Hinc quam sic calamus saevior ense, patet: The pen worse than the sword.)」と言っていますが、これはヴォルテールにこそふさわしいでしょう。いささかエキセントリックな人物であるとしても、エイヤー博士が提唱する通り、私たちはヴォルテールに学ぶ必要があるのです。ヴォルテール的精神、すなわち「明快さ、洞察力、知的誠実さ、精神的勇気」は寛容さへの意志です。現代社会ではその寛容さが失われつつあるのです。「しかし、われわれが互いに赦しあうべきことのほうがいっそう明らかである。なぜならば、われわれは脆弱で無定見であり、不安定と誤謬に陥りやすいからである」(『哲学辞典』)。

 九・一一以降、啓蒙主義に負っているにもかかわらず、アメリカ合衆国を筆頭に、多くの国々が移民に門戸を閉ざし始めています。前述した通り、イスラム圏と見なされている地域の出身者に対し、当局は厳しい目を向けています。フランスやオランダの有権者は、国民投票において、EU憲法への批准を拒否する結果を示しましたが、その理由の一つとして、安い労働者が移民として入ってくれば、職を奪われてしまうという恐怖感が挙げられています。もっとも、中には、あからさまには反対しないものの、移民を完全に排除することはできないから、受け入れようじゃないかと話のわかるふりをする人物もいるのです。移民は地域社会に同化しようとせず、犯罪の温床になっている以上、質と量に関して選抜して移民を認めるべきだと主張しています。移民をかつて「棄民」と蔑んだ日本とかいう極東の島国の難民政策は最初からお話になりませんが、欧米諸国は移民の流入によって文化的に活性化してきた歴史があります。現在、ジャズのない世界は想像できませんけれども、ニューオーリンズに地中海やアフリカ、カリブ海、中国からの移民が集い融合して、生まれています。実は、日本にしても、一〇〇〇年位前には、大陸からの移民を受け入れ、彼らは政治・経済・文化の面で欠くべからざる存在です。

 こうした現状に対して、マイケル・ムーア監督は、賛否両論を巻き起こした諷刺ドキュメンタリー映画『華氏911(Fahrenheit 911)』の中で、ニール・ヤング(Neil Young)の『ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド(Rockin' In The Free World)』を採用しています。

 

There's colors on the street

Red, white and blue

People shufflin' their feet

People sleepin' in their shoes

But there's a warnin' sign

on the road ahead

There's a lot of people sayin'

we'd be better off dead

Don't feel like Satan,

but I am to them

So I try to forget it,

any way I can.

 

Keep on rockin' in the free world,

Keep on rockin' in the free world

Keep on rockin' in the free world,

Keep on rockin' in the free world.

 

I see a woman in the night

With a baby in her hand

Under an old street light

Near a garbage can

Now she puts the kid away,

and she's gone to get a hit

She hates her life,

and what she's done to it

There's one more kid

that will never go to school

Never get to fall in love,

never get to be cool.

 

Keep on rockin' in the free world,

Keep on rockin' in the free world

Keep on rockin' in the free world,

Keep on rockin' in the free world.

 

We got a thousand points of light

For the homeless man

We got a kinder, gentler,

Machine gun hand

We got department stores

and toilet paper

Got styrofoam boxes

for the ozone layer

Got a man of the people,

says keep hope alive

Got fuel to burn,

got roads to drive.

 

Keep on rockin' in the free world,

Keep on rockin' in the free world

Keep on rockin' in the free world,

Keep on rockin' in the free world.

 

 森毅京都大学名誉教授は、『考えすぎないほうがうまくいく』の中で、移民問題について次のように書いています。

 

 この点では、二十一世紀の日本にとっては、外国移民の問題が救いになるかもしれぬ。 賛否がどうあれ、その時代には千万のオーダーの移民が予測されるから。

 教養ある知的階層、「優秀な人材」に移民を限定するという政策はまずいし、実際にもうまくいくはずがない。「文化水準」ということでは、「優秀でない人材」が当然に入ってくる。アメリカでも、プエルトリコやチカノに関して、差別発言をした人と同じ状況が、二十一世紀の日本にも来る。

 しかしながら、アメリカの本当の底力は、「文化水準」の低いマイノリティ、「優秀でない人材」がどんどん入ってくることによって支えられている。マイノリティの二世や三世が、新しい文化的活力を持った人材となっているのだ。

 

 故ジャック・デリダ(Jacques Derrida)教授は「歓待(L'hospitalité)」という概念を提起し、閉じられていこうとする社会に再考を促しています。無条件的な歓待の不可能性から興味深い議論を展開していますが、森教授は、『ええかげんネットワーク─偶然の出会い』の中で、知らない人とのつきあいについて次のようなエピソードを紹介しています。

 

 メディア・プロデューサーの残間里江子が未婚の母になるさい、彼女の母親は、彼女に対して、子供と子育てについて彼らの大切なポリシーを伝えた。街ではいろんな人と会う可能性があるが、それはたいへんな危険を伴う。でもその危険を覚悟した上で、できるだけいろんな人つきあえるような子供になるように育ててあげないさい、と伝えられたというのである。

 当節、どちらかと言えば社会全体が、知らない人とはつきあわないようにしようという安全運転の方向だ。通り魔や誘拐事件が横行している世の中だから、仕方のない流れだとは諦めているけれども、ちょっぴり寂しい世の中になったものだ。

 

 森教授は、そこで、社交について再考する必要があると主張します。『いよいよ社交の時代が幕を開ける』において、今の社会は閉じる傾向にあるけれども、社交の時代が到来すると次のように語るのです。

 

 では、次に来る時代は何か。そこで、社交主義だ。十九世紀の男の社会、つまり会社主義の原型となったのは十八世紀のフランスの思想家、ルソーの思想だと思う。ルソーの人間不平等起源論や社会契約論は社会主義のはしりで、男が主役である会社主義の土台となった。だが同時期に、同じフランスの啓蒙思想家でもディドロやダランベールは、サロンを舞台に活躍している。当時から社会の論理とは別に、社交の論理が重要視されていたのは見逃せない。ここへ来て、この社交主義が浮上してきたわけだ、情報化社会はまさしく社交の時代だと思う。

 社会=会社とサロンの論理の間には歴然とした違いがある。社会や会社は、システムをどう維持するかがもっとも重要な命題だ。したがって、その構成員はシステムへの帰属を要求される。会社や社会への忠誠心がなくて、システムにそぐわない人間は困る。異端が排除される社会と言い換えてもよかろう。

 サロンの原理はこれとはまったく正反対である。異端や変わった人間が流れ込んでこないことには成り立たない。何人かの人間が集まって、ひとつのサロンができ上がる。いつも同じメンバーだと最初はいいが、これはやがてマンネリ化してくる。このままでは、サロンとしては終わり。

 だから、自分たちとは異なる異質な人間を呼んできてサロンを活性化させる、ということを繰り返す。いってみれば、妙なものをおもしろがる開放型の集団がサロンなのだ。閉鎖的に異端を排除してしまうシステムとは、ここが違う。

 情報化社会はその意味では、サロン的である。絶えず新しい情報が流れ込んでくることに情報化社会の情報化社会たるゆえんである。

 

 「妙なものをおもしろがる開放型の集団がサロン」だとしますと、「閉鎖的に異端を排除してしまうシステム」は「クラブ(Club)」と呼べるでしょう。アメリカはサロン的な国家でが、九・一一以降、クラブ化しています。英国を先駆とした産業革命による世界の変容はサロンではなく、クラブを主流の会合スタイルによって可能だったとも言えるかもしれません。産業資本主義=国民国家は、国籍や年齢、性別の明確な区別に基づいており、クラブの体制にほかなりません。サロンが開かれた文化的場所であるとすれば、クラブは閉じられた政治的ないし宗教的結社です。クラブの構成員は均質的で、結束が重視されますが、サロンでは、人の出入りによって活性化されますから、人々の好奇心をかきたてる人物が好まれ、均質さは望ましくないのです。クラブと違い、「妙なものをおもしろがる開放型の集団」サロンは非平衡状態でなければならないのです。ヴォルテールは『バビロンの王女(La princesse de Babylone)』(一七六八)の中でこう言っています。「人間の本質は楽しむことであり、それ以外はすべて愚劣であることを人々は認めた。このすぐれた道徳は、いまだかつて事実による以外は裏切られたことがない」。

 モーリス・アギュロン(Maurice Agulhon)コレージュ・ド・フランス教授は、『パンテオンと古プロヴァンスのフリーメーソン(Penitents et francs-macons de l'ancienne Provence)』(一九六八)において、「社交性(La sociabilité)」を歴史分析に導入しています。彼は「フォーマルなもの」と「インフォーマルなもの」に分類し、前者をクラブやソサエティー、政党、学会など形式的・公的・制度的な結合関係、後者を飲み屋の常連や病院の待合室の老人たちのような日常的・私的・慣行的な結合関係と規定します。ただし、非合法団体の場合、この境界は曖昧になります。「社会的投資戦略」に基づいた多種多様なソシアビリテからなるネットワークの中に人々は生きているというわけです。

 けれども、フォーマルなものとインフォーマルなものは、しばしば、組み合わさっています。フォーマルな政党の総会では建前で話し、その後のインフォーマルな懇親会になってから、率直な意見交換を行うというのは常識です。また、クラブがフォーマルなもの、サロンはインフォーマルなものに分類されるわけですが、この分析では、いずれにしても構成員の関心は所属集団へのアイデンティティ確認ということになってしまいます。

 今では、サッカーや野球のチームに始まり、会員制のゴルフ場やアスレチック・ジム、ナイト・クラブ、秘密の小部屋などクラブと名のつくものは巷に溢れていますけれども、古代ギリシア=ローマにそうした組織はすでに見られます。地縁・血縁の共同体の結びつきや宗教的目的、同業者間の共通利害を守るために結成され、政治においても積極的役割を担っています。迫害されていた原始キリスト教徒はある種のクラブを結成して、進行を守っています。また、中世の聖職者グループやギルド、大学などもクラブの一種でしょう。しかし、今日の意味でのクラブは一七世紀のイギリスに起源を持っています。英国紳士はクラブがお好きなのです。エリザベス一世治下、ウォルター・ローリー卿(Sir Walter Raleigh)は「ブレッド・ストリート・クラブ(Bread Street Club)」を創立しています。このクラブはロンドンのブレッド街にある「マーメイド亭(The Mermaid Tavern)」で会合を持ち、ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare)、フランシス・ボーモント(Francis Beaumont)、ジョン・フレッチャー(John Fletcher)なども当時の会員です。他には、ベン・ジョンソン(Ben Jonson)が設立した「アポロ(The Apollo)」も当時の著名なクラブの一つです。一七世紀半ば、ロンドンでコーヒー・ハウスが登場し、一八世紀初めに、ここを拠点とするクラブが激増します。『タトラー(The Tatler)』や『スペクテーター(The Spectator)』はそうしたクラブから生まれた代表的な雑誌です。一六七九年に、居酒屋「キングズ・ヘッド(The King’s Head)」で会合を持つ「グリーン・リボン・クラブ(The Green Ribbon Club)」、一七一三年にジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)が設立した「スクリブレルス・クラブ(The Scriblerus Club)」、一七〇三年、ホイッグ党(The Whig Party)系のジョセフ・アディソン(Joseph Addison)やロバート・ウォルポール(Robert Walport)らが会員の「キットカット・クラブ(The Kit-Kat Club)」が創立されています。しかし、最も著名なのは「ザ・クラブ(The Club)」こと「リテラリー・クラブ(The Literary Club)」でしょう。一七六四年、ジョシュア・レーノルズ(Joshua Reynolds)とサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)が立ち上げ、ロンドンに現存する「タークス・ヘッド(The Turk's Head)」で会合を開き、エドワード・ギボン(Edward Gibbon)、ジェームズ・ボズウェル(James Boswell)、オリバー・ゴールドスミス(Oliver Goldsmith)らも初期の会員です。一九世紀に入ると、ロンドンのクラブはさらに活況を呈します。会食や宿泊がのみならず、会員向けの図書室を備えるものも少なくありません。政治的クラブとして、いずれも一八三二年に設立されたトーリー党(The Tory Party)系の「カールトン・クラブ(The Carlton Club)」と選挙法改正派(The British Reform Act of 1832)の「リフォーム・クラブ(The Reform Club)」があり、外交官が集う「トラベラーズ・クラブ(The Travelers’ Club)(一八一九)、学芸分野の「アテナイウム(The Athenaeum)」(一八二四)、俳優の「ギャリック・クラブ(The Garrick Club)(一八三一)、自動車愛好家の「英国自動車クラブ(The Automobile Club of Great Britain)(一八九七)、ポロの「ローハンプトン・クラブ(Roehampton Club)(一九〇一)などが代表的なクラブです。加えて、女性たちも権利拡大のためのクラブを結成しています。労働党へと発展した社会主義者のグループ「フェビアン協会(The Fabian Society)(一八八四)やヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)やジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)が所属していた「ブルームズベリー・グループ(The Bloomsbury Group)(一九〇五)もサロンに近いながらも、クラブに含めることができるでしょう。

 ところが、ヨーロッパ大陸ではサロンが主流です。一八八四年に発足したパリの「ジョッキー・クラブ(Le Jockey-Club)」などを除けば、会員制のクラブはあまり育っていません。ただし、政治的クラブは別です。ドイツやイタリア、スペイン、フランスで盛んです。特に、フランス革命期に多くの「政治クラブ(Le Club Politique)」が仏国で誕生しています。主なものでは、「ジャコバン・クラブ(Le Club des Jacobins)」や人民の友の会の「コルドリエ・クラブ(Le Club des Cordeliers)」、立憲君主派の「フイヤン・クラブ(Le Club des Feuillants)」などがありますが、すべてナポレオン・ボナパルトにより一七九九年に閉鎖されています。クラブは、本質的に、政治的組織であり、サロンは文化的空間なのです。

 アメリカでは、イギリスの植民地だった歴史も影響して、クラブが発達しています。傾向はイギリスに似ています。一七三二年、フィラデルフィアで「フィッシュ・ハウス(The Fish House Club)」が発足し、東海岸の各都市でも続いています。一九世紀には、連邦主義支持の共和党員による「ユニオン・リーグ・クラブ(The Union League Club)(一八六三)、最初の女性クラブ「ソロシス(Sorosis)(一八六八)、俳優たちの「ラムズ(The Lambs Club)(一八七四)といった特定の関心で結ばれたクラブがニューヨークを中心に出現し、南北戦争後、それは全米に拡大しています。特に、女性のボランティア活動やフェミニズムのクラブが増加しています。二〇世紀に入ると、ロータリー・クラブ(Rotary Club)やライオンズ・クラブ(Lions Club)など専門職や実業界の人々による社会奉仕のクラブも生まれ、国際的組織に成長しているものもあります。

 この動向は非常に興味深いものです。政治クラブは、英国だけでなく、大陸でも活況です。政党はこの政治クラブの延長線上にあり、議会がまだ開設されていなくても、政党が近代化を指導しています。近代の政党政治はクラブ主義と言って間違いありません。

 美容院を「ビューティー・サロン(Beauty Salon)」とも呼びますけれども、クラブと違い、サロンは近代において衰退したのですが、「サロン(Salon)」はイタリア語の「サローネ(Salone)」に由来し、個人の邸宅の中で客を接待するための部屋を意味する建築用語です。フランス文化は、絶対王政が形成するまで、商業が盛んなイタリア文化の影響を強く受けているのです。サロンは男性の社交の場で、アングロ=サクソンのクラブと対照を示しています。一七、一八世紀のフランスで、貴族ないし富豪の夫人もしくは愛人が邸宅に政治家、学者、知識人、作家、芸術家などを招いて定期的に開催する社交の場を「サロン」と呼ぶようになっています。特に、一八世紀から一九世紀の前半にかけて、学術・思想・芸術などの情報交換の場として重要な役割を果たしています。アンリ四世の粗野さに嫌気がさしていたイタリア系のカトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ(Catherine de Vivonne)が一七世紀の初めにルーブル宮殿近辺の自邸で開催したものが最初期のサロンとされています。ここにはコンデ大公(Prince de Conde)やリシュリュー公(Duc de Richelieu)、ピエール・コルネイユ(Pierre Corneille)らが集まっています。また、侯爵の娘で、文学的素養に恵まれたランベール夫人(Madame Lambert)が、一六八〇年代、夫の死後に開いたサロンには、文学者が多く集い、グレコ=ローマンの文芸と近代の文芸のどちらが優れているかをめぐる文学史上に残る新旧論争が繰り広げられています。ニコラ・ボワロー(Nicolas Boileau-Despréaux)とジャン・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine)が古典文化の優越性を擁護する一方、シャルル・ペロー(Charles Perrault)やベルナール・フォントネル(Bernard Le Bovier de Fontenelle)は古典主義を批判しています。フランスを罵倒したヴォルテールですが、意外にも、古代ギリシア人以上とフランス古典劇を擁護しています。この論争は、その後、再燃し続け、ダーウィニズムの登場で最高潮に達しています。

 サロンには老若男女が集いますから、さまざまな火遊びやロマンス、情事によって、非嫡出子も数多く生まれています。ジャン・ル・ロン・ダランベールのその一人です。この美青年はその明晰な頭脳と愛嬌によってサロンの常連となり、有力なサロン主催者の一人デファン夫人(Madame du Deffand))から「自由の奴隷」とニックネームをつけられています。

 

Born a poor young country boy--Mother Nature's son

All day long I'm sitting singing songs for everyone.

 

Sit beside a mountain stream--see her waters rise

Listen to the pretty sound of music as she flies.

 

Find me in my field of grass--Mother Nature's son

Swaying daises sing a lazy song beneath the sun.

 

Mother Nature's son.

(The Beatles “Mother Nature's Son”)

 

 サロンでは、人々はただだべり、色恋に耽っていただけではありません。お楽しみは何でもあるのです。自作の朗読や解説を行い、これに対する批評を求めることが通例です。若手の作家・理論家が招かれて、作品や自説を紹介することもあったのですが、それはパトロンを見つけ、文芸・思想の世界に登場する機会にもなっているのです。フランソワ・ド・ラ・ロシュフーコー(François de la Rochefoucauld)は、サロンで披露されたアフォリズムが話題となり、一六六四年、『箴言集(Maximes et Reflexions Morales)』として出版しています。著名な文学者や政治家などにとっても、サロンめぐりは職務の一環ですし、文芸界での活動を希望する若者にすれば、有名なサロンに出入りを許されることがその第一歩なのです。サロンがヨーロッパの出版産業をリードしているのです。故串田孫一氏は『フランス十八世紀の哲学者たち』の中でこう言っています。「ヴォルテールが言ってることだが、たとえばドイツでは物理学者は物理学者としてとどまっていられるが、フランスではそうはいかない。学者といえども、人を悦ばせる術を心得ていなければならない。学者としても、知識の集積のみを楽しみとせず、サロンを通じて世間に踊り出ることを自分自身望んでいたのである」。

 御承知のことと思いますが、ルイ・ル・グラン学院を卒業した反骨精神に溢れた早熟のある青年は、一七一七年五月一七日、マリー・アントワネットの首飾り事件で知られる自由主義者の摂政オルレアン公(Duc d'Orleans.)の所業を諷刺した詩『私は見た(J'ai vu)』の作者と見なされて、バスティーユに投獄されています。出獄後、彼は「ヴォルテール(Voltaire)」の筆名を用い、悲劇『エディプ』(一七一八)を上演して、名が知られ始めると、サロンに盛んに出入りし、ありとあらゆることに関心を持ち、辛辣で才気煥発な発言でたちまち注目を浴びています。セレブになったというわけです。けれども、そのことで、妬まれ、暴漢に襲われたり、再投獄され、一七二六年、イギリスへ逃亡せざるを得なくなります。彼はそこで最も発達した資本主義と自由主義の社会を体験するのです。その見聞に基づいて、帰国後、フランスの政治・経済・宗教・風俗など遠慮会釈なしに批判した『哲学書簡またはイギリス書簡(Lettres philosophiques ou Lettres sur les Anglais)』を刊行しようとしますが、発禁処分となってしまいます。ところが、それが人々の興味を引く結果になってしまい、一七三三年、英訳版が出版され、翌年には、ルーアンでフランス語版も印刷されて、密かにパリでも出回っています。当時、この発禁処分はフランスの作家にとって勲章のようなもので、それを食らうと、人々が好奇心にかられて、こぞって求めるというのが通常の成り行きです。当局からの逮捕を恐れたヴォルテールは逃亡し、シャトレ侯爵夫人(Madame de Chatelet)に保護されます。この女性はアイザック・ニュートン(Isaac Newton)の『プリンキピア(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica))』を翻訳し、ヴォルテールの執筆についても意見を述べています。以後一〇年間、ここを拠点として文学や科学を研究しつつ、演劇も執筆しています。その後、宮廷の情勢が好転し、ヴェルサイユに呼ばれ、史料編纂官・アカデミー会員・侍従に迎えられたものの、一七四七年、浅はかにも、フォンテヌブローの宮殿で失言してしまい、ソーのメーヌ公爵夫人(Madame de Maine)の元に逃亡しています。

 一八世紀になると、名門貴族層が力を失い、商工業者や金融業者などの富裕なブルジョアジーの勢力が増大すると、そうした新興階級の主催するサロンも増加しています。と同時に、ブルジョアジーは伝統的かつ広範囲な知識・教養に乏しいため、サロンごとに思想的・政治的傾向が分かれるようになり、いささかクラブ化しています。攻撃的な無神論者ポール・アンリ・ディートリヒ・ドルバック男爵(Baron Paul Henri Dietrich d'Holbach)のサロンなどは啓蒙思想家のたまり場となり、また、銀行家で財務長官となったジャック・ネッケル(Jacques Necker.)の夫人のサロンには、後のフランス革命の指導者たちが集まっています。

 音楽において、クラブ文化のイギリスからは優れた作曲家が輩出されなかった反面、サロンは重要な作品の発表並びに演奏技術の披露の場として機能し、そこでの評判が音楽家の社会的名声を高めています。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「神童」の伝説が生まれたのもサロンです。けれども、産業革命の発達により、一八世紀末から一九世紀にかけて、音楽家が王侯貴族のパトロンから離れてフリーランスとなり、コンサート・ホールや劇場などで演奏するようになり、サロンの権威は低下していきます。フレデリック・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)などによりサロン音楽が作曲されていたものの、かつての活況から見れば、サロンの相対的な地位低下は否めません。”Madame, shall we dance?”

 

Let’s dance

Let’s dance

 

Let’s dance, put on your red shoes and dance the blues

Let’s dance, to the song they’re playin’ on the radio

 

Let’s sway, while colour lights up your face

Let’s sway, sway through the crowd to an empty space

 

If you say run, I’ll run with you

And if you say hide, we’ll hide

Because my love for you

Would break my heart in two

If you should fall

Into my arms

And tremble like a flower

 

Let’s dance

Let’s dance

 

Let’s dance, for fear your grace should fall

Let’s dance, for fear tonight is all

 

Let’s sway, you could look into my eyes

Let’s sway, under the moonlight, this serious moonlight

 

And if you say run, I’ll run with you

And if you say hide, we’ll hide

Because my love for you

Would break my heart in two

If you should fall

Into my arms

And tremble like a flower

 

Let’s dance

Let’s dance

 

Let’s dance, put on your red shoes and dance the blues

Let’s dance, to the song we’re playing

Let’s sway

Let’s sway, under the moonlight, this serious moonlight

Let’s dance

Let’s, Let’s, Let’s, Let’s sway

Let’s, Let’s dance let’s dance let’s dance let’s dance let’s dance

Let’s dance

Let’s sway

Let’s sway

Let’s dance let’s dance let’s dance let’s dance let’s dance

Let’s dance

Let’s dance

(David Bowie "Let's Dance")

 

 一九世紀後半になると、新聞や雑誌などの活字メディアが発達し、神の死に伴い、その文芸作品の意味を解説する批評家という存在が成立します。そのため、サロンは作品の発表や情報交換の場としての役割は縮小し、そこに集ったとしても、学問や文学、芸術のセレブ、ないしオピニオン・リーダーとは見なされなくなってしまいます。批評家はサロンの死と共に誕生したのです。一七五九年から八一年に亘って、ドイツ系のフランス百科全書派フレデリック・メルキオール・グリム(Frédéric Melchior Grimm)が編集する雑誌『文学通信(Correspondance Littéraire)』にディドロが展覧会に関する美術批評「サロン(Salons)」を発表したのは、その徴候でしょう。これが史上初の美術批評と考えられています。「書評なんかでも『この辺がもっともな読み方なんだろうな』ともっともな読み方を知ることは必要で、『その上で別な読み方をしたら、別の視点が開けるよ』とそこから批評がはじまる。だから、批評は正解のあとからはじまる」(森毅『人は一生に四回生まれ変わる』)。

 ゲオルク・ジンメル(Georg Simmel)博士は、『社交性の社会学(Soziologie der Geselligkeit(一九一〇)の中で、「もし社交性が、それを実人生に結びつける糸を、様式化された網目をつむぎ出すもとになる糸を完全に断ち切るならば、社交性は遊戯から空虚な笑劇に、自らの鈍さを誇る生命のない図式に変わる」と指摘しています。サロンは閉鎖的になると活力を失いますから、組織というよりも、交通の場所です。完全に公的でもなければ、完全に私的でもありません。公私が混在しているのです。サロン内にグループができたとしても、その間の人の移動は頻繁です。サロンは外的な目標を持ちません。楽しくあればそれでいいのです。一致団決など野暮の骨頂に間違いありません。エレガンスが要求されるのです。洗練さが大切な社交のサロンですから、女性がリードしていた方がうまくいくのは当然でしょう。女性に接するには、礼儀をわきまえなくてはなりませんものね。丁寧さは敵をつくりませんから。

 森毅は、『男文化の行方』において、文化に発する味には大きく二つあり、「男味」と「女味」について次のように述べています。

 

 男味のほうが集中的とするなら、女味のほうが分散的だろう。なんでも一つにかたまって集中するのがよいように考えられてきたが、そうでもない。

 たとえばテストのときは集中力と言い、たしかに一つの方向に世界を定めて集中するのが有効だが、そうばかりでもない。テストのあとでぼんやりと心を開いていると、なんでもない解き口が見つかったりすることがある。

 よいアイデアは、世界を閉じるより、できるだけ心を開いて外からの兆候を感じたほうがよい。そして、そのアイデアをかためるときは集中力が必要。()

 あるいは、男味は計画達成型で、女味は状況反応型であろう。男味がすぎると計画にこだわるし、女味がすぎると状況に流される。男文化のモラルでは、「男はいったん決めたら、まわりを気にせずとことんやる」ことで、女文化のモラルでは、「まわりの様子への気くばりがなにより」となる。それで、男の子と女の子がいると、男の子がなにか欲しいときは自分の熱意と理屈で迫り、女の子だと親の機嫌の流れを読みとる。

 男味のほうが安定性を必要とするものづくり産業に向いていて、女味のほうがアパレルのような情報付加産業に向いていよう。時代としては情報の部分が増えて、女味に向かっている。

 

 この「男味」と「女味」がうまく結びついている好例があります。ベルサーチのファッション界における席巻は、デザイナーの故ジャンニ・ベルサーチ(Gianne Versace)のセンスがすべてだったわけではありません。経理部門を担当し、ジャンニの浪費を窘め続けた兄サント(Santo)、ならびに、今どういったファッションが求められているかを最もオシャレな場所に出入りして調べあげた社交的な妹ドナテッラ(Donatella)の協力があってこそです。ドナッテラのリサーチに、ジャンニが自分らしさを加え、サントがそれを商売として成り立たせます。男味のサントと女味のドナッテラ、それにゲイのジャンニの三つの味が融合して、ベルサーチのファッションの成功がありえたのです。

 ヴォルテールを含め、啓蒙思想家は「女味」によって社会を変えようとしています。激情に任せて、暴力的に、体制を転覆するのではなく、君主にとり入って、変革させようとするのです。教育水準も全般的に低く、メディアも未発達な社会では、民衆を通じた社会改革は難しいのです。しかし、専制君主は彼らのアドヴァイスに耳を傾けることはなく、失望のうちにその元を去っていきます。啓蒙主義者はプラトンの哲人政治の理想を夢見たのでしょうけれども、啓蒙専制君主はマルクス・アウレリウス・アントニヌスを気取り、文化に理解を示すポーズを見せているにすぎません。「だが、文人には助かる術がないのだ。彼は飛び魚に似ている。ちょっと跳びあがれば鳥に食われるし、もぐれば魚に食われるのである」(『哲学辞典』)。よく知っていると思いますけれども、ヴォルテールは舌禍事件のため、ルイ一五世の不興を買い、シャトレ侯爵夫人の急死にショックを受け、一八五〇年、プロイセンのフリードリヒ二世に招かれてポツダムの宮殿に赴き、王の文学上の友人として優遇されます。クリスチャン・ヴォルフの哲学をめぐる質問の書簡をきっかけにして、王が二四歳の頃から、知遇となっています。

 一七三九年二月三日、二七歳の王は一八歳年長のこの哲学者に物理学の実験に関する次のような手紙を送っています。

 

 私の研究に関する報告として、物理学の分野における若干の成果をお知らせしたいと思います。排気ポンプを用いる実験はすべて試みたつもりですが、なお二つばかり新しい実験を考案しました。一つは、時計のふたを開けたまま排気筒の中に入れて、時計が進むか遅れるか、それとも止まってしまうか観察するものです。もう一つの実験は、空気と発芽力の関係を調べるものです。土を少し取り、えんどう豆を一粒蒔いてから排気筒の中に入れ、ポンプで空気を抜きます。おそらくその豆は発芽しないのではないでしょうか。空気と発芽力には、密接な関係があると思われるからです。

 

 プロイセン滞在の間、『ルイ十四世の世紀(Le siecle de Louis XIV)(一七五一─五六)を完成させ、哲学小説『ミクロメガス(Micromegas)(一七五二)を著わしたものの,次第に王との関係は険悪化していきます。ウッドロー・ウィルソン大統領にとってのウォルター・リップマンにはなれず、ヴォルテールは一七五三年にベルリンを去っています。フリードリヒ大王は、一七五一年、ジュリアン・オフレイ・ド・ラ・メトリ(Julien Offray de La Mettrie)に「オレンジは一年ほど絞って皮は捨てる」と言ったのを聞いて、ヴォルテールは幻滅していたのです。いやはやなんとも、両者の友情自体はその後も続いています。「開明的な絶対主義君主は、十九世紀近代国家が国民の知的水準を起訴として成立することの予兆を感じとってもいたのだった。それで、新興国のプロシアのベルリン学士院とロシアのペテルブルク学士院の双方が、ダランベールの招請に熱意を持ったのだった」(森毅『女たちの森の中で─ダランベール』)。サロンの時代が終わりを迎えるにつれ、資本主義が発達し、革命が起き、国民国家へと国家体制が成立していきます。革命は、粛清が示している通り、まさに「男味」の原理で動いています。一八世紀が「女味」の時代だったとすれば、革命に先導された近代は「男味」の時代です。

 「ええかげんネットワーク」は意図的に形成されたわけではありません。同時代的な共鳴です。以降、このネットワークは人為的につながれるのではなく、ある都市で起きた出来事に対してシンクロニシティとして生成するのです。それは非線形的引き込み現象にほかなりません。

 革命を通じて形成された国民国家体制は、一九世紀、「国民」を生産しましたが、それは成人男性のことです。一九世紀は男味の世紀です。他方、二〇世紀の消費社会は「大衆」を生み出しましたけれども、それは「女味」を持っています。二〇世紀は一九世紀が抑圧した一八世紀を復活させたのです。二〇世紀は一九世紀がもたらした矛盾を克服するために、一八世紀を復興し、それを再構築しています。

 女味の時代を生きていくには、啓蒙主義者はセクシーであることが最低条件です。若きベンジャミン・フランクリンもハンサムです。雷の日に凧をあげた人物は、アメリカの現状を理解してもらうために渡仏した際、優秀な外交官ジョン・アダムス(John Adams)を同行しています。彼はフランクリンの著わした『貧しいリチャードの暦(Poor Richard's Almanack)』を尊敬し、実践していたのです。信奉者が朝早く出勤するのに対し、その作者はお昼くらいにようやく辿り着くという有様です。ところが、フランスの要人は謹厳実直なアダムスを嫌い、魅力的なフランクリンと会うのを好みます。フランクリンは、そのため、貴重な情報を得ています。アダムスはクラブの住人であり、フランクリンはサロンの寵児なのです。

 

Sugar, sugar

 

She sits alone waiting for suggestions

He’s so nervous avoiding all the questions

His lips are dry, her heart is gently pounding

Don’t you just know exactly what they’re thinking

 

If you want my body and you think I’m sexy

Come on sugar let me know.

If you really need me just reach out and touch me

Come on honey tell me so

Tell me so baby

 

He’s acting shy looking for an answer

Come on honey let’s spend the night together

Now hold on a minute before we go much further

Give me a dime so I can phone my mother

They catch a cab to his high rise apartment

At last he can tell her exactly what his heart meant

 

If you want my body and you think I’m sexy

Come on honey tell me so

If you really need me just reach out and touch me

Come on sugar let me know

 

His heart’s beating like a drum

cos at last he’s got this girl home

Relax baby now we are alone

 

They wake at dawn ’cos all the birds are singing

Two total strangers but that ain’t what they’re thinking

Outside it’s cold, misty and it’s raining

They got each other neither one’s complaining

He say’s I sorry but I’m out of milk and coffee

Never mind sugar we can watch the early movie

 

If you want my body and you think I’m sexy

Come on sugar let me know

If you really need me just reach out and touch me

Come on honey tell me so

 

If you really need me just reach out and touch me

Come on sugar let me know

If you really, really, really, really need me

Just let me know

Just reach out and touch me

If you really want me

Just reach out and touch me

Come on sugar let me know

If you really need me just reach out and touch me

Come on sugar let me know

If you, if you, if you really need me

Just come on and tell me so

(Rod Stewart “Da Ya Think I’m Sexy?”)

 

 一八世紀、フランス語を媒介とした「文芸共和国(La Republique des Lettres)」が形成されていますが、森毅教授は、『数学と人間の風景』において、一八世紀のサロン文化の手紙の役割について次のように述べています。

 

ところで十八世紀というのはサロン文化の時代です。当時は手紙のやり取りをして、またそれをどんどん写して流布したりするので、手紙が大きなメディアになっていました。不思議なことに、ライプニッツのパトロンには女性が多くて、その女性に難しい哲学を一生懸命にしゃべっています。そっちのほうがソフトであるからわかりやすかったりします。ライプニッツは、本も書いていますが、本以外に手紙を通じていろいろなことをやっている。デカルトも女性相手に文通をしています。

 

当時の貴族の女性というのはけっこう文化水準が高くて、当時の数学者は、だいたい数学を考えるときは、あの女性にはこういう新しいことを見つけたと説明したらどんな反応を示すだろうか、ということを想像しながらやっている。また、その話がいくらか通じたというのです。これはすごい世界だと思うのです。ほんの一握りの特権階級だけかもしれませんが。

 

「社交」というときに間違ってもらうと困るのですが、決まった村のなかで村の週間に従うというのは社交じゃない。これは閉じた社会です。そうではなくて、外から変な人をうまく入れたり、自分たちと違う文化の人とうまくつきあうというのが社交です。

 

 このサロン全盛の一八世紀は「ヴォルテールの世紀(Le Siècle de Voltaire)」と呼ぶべきでしょう。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)は、『法哲学(Grundlinien der Philosophie des Rechts))(一八二一)において、「個人について言えば、誰でももともとその時代の息子であるが、哲学も、また、その時代を思想のうちに把えたものである」と言いましたが、一八世紀は、「その時代の息子」のヴォルテールによって表象されているのです。アカデミー・フランセーズ会員のアンドレ・モロウ(André Maurois)氏の『ヴォルテール(Voltaire)(一九三二)によると、「市民的であると同時に貴族的、普遍的で軽佻、科学的で浮華」の一八世紀のイメージを象徴する人物です。お気の毒に、彼もすでに故人です。そのヴォルテール自身は、『ルイ十四世の世紀』の冒頭で、「私が後世のために描こうと望むのは、一個人の行動ではなく、過去の最も開けた世紀における人々の精神である」と書いています。「ヴォルテールの世紀」は一八世紀の「人々の精神」を彼が最も表象していたということなのです、

 小難しい手紙には閉口してしまうものです。「一体誰に向かって書いてるのかしら」と思われかねません。具体的な読者に向けた手紙には誤解されないようにと礼儀がこもりますから、内容は丁寧になり、咀嚼されるのです。それに、ユーモアも必要です。読んでいて、飽きてしまいますから。

 想像を絶しますが、ヴォルテールは、生涯に、四万通もの手紙を書いたと推測されています。日に最低一〇通、多いときには二〇〇通以上に及んでいるのです。パリのカルナヴァル美術館(Musée Carnavalet)には、起床して着替えをしながら、秘書に手紙を口述筆記させる絵画(ウベ作)が展示しています。これがヴォルテールを最も表わしているのであり、一八世紀の姿です。当時の手紙に私信は事実上存在しません。公開されるのが当然の公文書であり、文芸共和国はこの手紙のネットワークです。公私は相互に浸透し、分割は不可能です。公共性はコミュニケーションによって出現するのであって、公共性が先行して存在するわけではないのです。文芸共和国が貴族でも商人でもない抽象的な「公衆」を生み出しています。サロンはネットワークとして発達にしていますから、それをつなぐ印刷術と郵便網の確立が欠かせません。文芸共和国の誕生は一六世紀に遡ります。宗教改革の時代、ラテン語を媒介にして、非寛容さを憤る人文主義的な知識人のネットワークが生まれています。グーテンベルク革命以来普及した出版物は、一八世紀以前、教会や王権、知識人たちのプロパガンダとして機能しています。自分たちに都合よく書かれ、それを鵜呑みにする愚か者はいません。アーノルド・ホワイトヘッド(Arnold North Whitehead)博士が『科学と現代世界(Science and the Modern World)(一九二五)の中で「天才の世紀(The Century of Genius)」と呼んだ一七世紀に入ると、ラテン語に代わって、フランス語がヨーロッパ知識人の間の公用語になり、新たなネットワークが形成されます。ラテン語は学術語であるだけでなく、ローマ・カトリック教会の言語ですから、それは教会権力の後退を意味します。正教会のロシアでも、プロテスタントのプロシアでも、フランス語を話せないのは王侯貴族や知識人として恥です。一六三五年、アカデミー・フランセーズが設立されていますが、フランス語は国家の言語ではありません。サロンの言語です。クロード・ファーブル・ド・ヴォージュラ(Claude Favre de Vaugelas)は『フランス語に関する覚書(Remarques sur la langue française, utiles à ceux qui veulent bien parler et bien écrire)(一六四七)において、「言語に関して疑いがあるときは、普通は女性に尋ねるのが得策である」と記しています。フランス革命当時でさえ、全人口の三分の一ないしは四分の一がフランス語を話していません。国家語と化したフランス語によるオック語やブルトン語の統一=征服を通じてフランスという「国民国家」が成立するのです。

 今日では、英語を公用語としたEメールのネットワークが形成されています。しかも、インターネットは情報の宝庫です。これは現代の文芸共和国であると同時に、百科全書だと言えます。WWWは啓蒙主義の実践の場なのです。この膨大な情報には検索エンジンが欠かせません。ウェブ全体は、言うまでもなく、膨大な量ですから、検索できる範囲は限られています。ロボット型であれ、ディレクトリ型であれ、手作業に負う部分があるとしても、もはやソフトが定期的にネットを検索し、思想体系を構築しているのです。「知恵の樹」はその実践でしょう。インターネットは開かれた系、すなわち非平衡ですから、平衡に達しません。つねに完結していないのです。電脳社会の百科全書はポータルサイトとも言えます。キーワードで検索されても、検索サイトの上位にランクされなければ、閲覧される可能性は低くなっていきます。検索エンジン最適化(Search Engine Optimization: SEO)も検索連動広告の登場により、検索エンジン・マーケッティング(Search Engine Marketing: SEM)とも呼ばれるようになっています。検索サイトで調べると、検索結果に関連があるとエンジン開設者ならびにスポンサーが判断した場合、その類の広告が現われます。それを利用者がクリックしてくれるだろうと期待しているわけです。ですから、サイトに検索エンジンを通じた作業で引っかかりやすい単語を用いるなどの工夫が必要になるのです。検索エンジンから除外されていては、ウェブ上に存在していないのと同じ状態になりかねません。サイトの開設者は自分自身がネット利用者のニーズにおいてどこに位置しているかを絶えず自己検証しなければなりません。「ゴッゴル」のように、これを教育的に活用している人たちもいます。相手の気持ちになることや基礎的な商取引の実践です。当然、逆に、それを餌にして「検索エンジンで表示順位をあげてやる」という悪質な詐欺業者も出現します。検索エンジンにしても、新たなキーワードやその組み合わせが絶え間なく生まれる以上、利用者のキーワードに対する認識の変化に対応しつつも、悪用操作されないために、検索サイトは使っているソフトのソースを公開していません。リピーターを増やすには、やはり充実した内容・情報を持ったサイトでなければならないのです。けれども、ネッティズンは善意の人だけではありません。ワームやコンピューター・ウィルス、ジャンク・メール、不正進入、詐欺はネットには溢れています。望まないのに、サイトが検索エンジンに載せられてしまい、プライバシーが侵害されることもあります。また、サイバー・スペースは脱領土化の試みに適しているにもかかわらず、東アジア諸国では、しばしばナショナリズム扇動の場になっています。しかも、ネットが不可欠になると、それは現実世界同様の危機や困難を現わしています。ネットを通じた政治活動は、その成否はともかく、ウクライナやキルギスにおいて体制転覆に利用されています。特定の国家の利益を増徴するために、あるいは個人や団体を誹謗中傷するために、使われてもいます。電子文芸共和国はサロンではなく、クラブ化しているのです。

 インターネットの普及はサロン主義の復活を促していますけれども、一八世紀のサロンと違い、嘘に洗練されていません。サロンは嘘で成り立っています。また、嘘と噂、法螺話がなければ、話は盛りあがりません。社交には状況認識とバランス感覚が必要となるのです。サロンを生きた啓蒙主義者は、ヴォルテールにしろ、ディドロにしろ、神学や法学を修めた従来の正統的な学者ではなく、アヴァンチュリエ(Aventurier)です。彼らはインチキ臭く、アレッサンドロ・ディ・カリオストロ(Alessandoro di Cagliostro)やジャック・カザノヴァ・ド・サンガール(Jacques Casanova de Seingalt)といった山師とさほど区別されません。一九世紀になると、国家の認定する正統性がこうした曖昧さを排除しています。ネット利用者の多くは、クラブ的な精神のまま、サロン主義的な空間に迷いこんでいるのです。

 「哲学者は知恵を愛する者であり、真理を愛する者である。哲学者には誰にもこの二つの性格がある」(『哲学辞典』)と言うヴォルテールにとって哲学は、高橋安光教授の『ヴォルテール』によると、「良識」を指します。ヴォルテールは、ある書簡の中で、その「フィロゾフ(les philosophes)」を「友人になる術をこころえている」人物です。彼が、『哲学書簡』の中で、Lokeと綴っているジョン・ロック(John Locke)は、『人間悟性論(On Human Understanding)(一六八九)において、「神は、人間を社交的創造物と定めたので、人間が同類の者たちと交際する傾向を持ち、またどうしてもそうしなければならないようにしただけでなく、さらに社会のおもな道具と共通の絆となるべき言語を彼に与えた」と言っています。この社交性をめぐる認識は啓蒙主義者に共通しているのですが、ただ一人それに異を唱えていた思想家がいます。言うまでもなく、ルソーです。余計なこととおっしゃらないでください。少々御勘弁を。ディドロの『私生児に関する対談(Entretiens sur Le fils naturel)(一七五七)の中の「ひとりでいるのは悪人だけだ」に激昂しています。ルソーはサロン主義者ではありませんが、クラブ主義者でもありません。非社交的なだけです。歴史は啓蒙主義者ともルソーとも違った方向に流れていきます。故ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)教授が、『プルーストとシーニュ( Proust et les signes )(一九六四)において、二〇世紀のサロン主義的文学者について、「哲学者のなかには、『友人』が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判を差し向けるのは重要なことである。友人たちは、お互いに、ものやことばの意味について意見があう善意のひとたちとして存在する。かれらは共通の善意の効果のもとでコミュニケーションする」と書いています。啓蒙主義者にとっての友人は仲間内と言うよりも、サロン的なコミュニケーションを通じて形成されるのです。もっとも、『百科全書』の執筆に関して、締め切りを守ったのは、聞いていらっしゃると思いますけれども、そのルソーただ一人です。こういうところもこのジュネーブ市民はゴーイング・マイ・ウェイです。

 マックス・ホルクハイマー(Max Holkheimer)博士は、『哲学の社会的機能(Die gesellschaftliche Funktion der Philosophie)(一九七四)において、哲学の仕事について次のように主張しています。

 

哲学が現実と対立するのは、哲学の原理上の帰結である。哲学は、人間の行動や目標が盲目的必然の産物であってはならないと主張し続ける。科学上の諸概念、社会生活の形態、支配的な思考様式、支配的な習俗のどれも、慣習によって承認されたり、無批判的に実践されたりしてはならない。(略)哲学に課せられている仕事、愉快でない仕事は、自然的で普遍、永遠なように見える、それほど深く根づいた人間の関係や反応の仕方に対してまで、意識によって照らし出す作業である。

 

 フランクフルト学派のリーダーは「伝統的理論」と「批判的理論」という機軸を提示しています。「伝統的理論」は現在の社会での生活の再生産に基づいて産出される問題提起に従い、経験を組織化するものです。一方、「批判的理論」は現前の生活形態が指示する目的をあしらい、可能性を問題にして、人間を呪縛する社会的諸関係からの解放を目標とします。啓蒙主義は後者です。テオドール・W・アドルノ(Theodore W. Adorno)教授とホルクハイマー所長は、『啓蒙の弁証法(Dialektik der Aufklärung)(一九四七)において、「啓蒙の自己破壊」を告発しています。彼らは啓蒙を技術的・道具的理性として二〇世紀の先進諸国を支配し、自己破壊に陥るファシズムの反理性的神話を生み出したプロジェクトとして批判します。二人は啓蒙を仮想敵に見立てています。近代政治革命の原動力的思考に限定していませんけれども、啓蒙主義のサロン主義を考慮していません。むしろ、彼らはクラブ主義を問題視しているのです。

 近代以降の近代小説の絶対性、あるいは文学ヘゲモニーの獲得は近代人の頑なさを表わしています。この画一性は啓蒙主義者から見れば物笑いの種なのです。文学者は、馬鹿げたことに、小説の専門性に閉じこもります。小説に対する盲信において、近代人は啓蒙主義者より後退しています。小説の優位こそ近代の愚かさの代表なのです。近代小説を完成させようという試みは国民の画一性・排除性・クラブ性と同じです。この点では、日本など無残なもので、未来の人たちに見てもらいたいくらいです。

 啓蒙に働く弁証法は、サロン主義ですから、自己完結していません。啓蒙は同一化・統合化・内在化を拒絶します。ポストモダニズムの先駆なのです。むしろ、ポストモダン文学は啓蒙主義の焼き直しにすぎません。啓蒙主義者は一見自明な概念形態を相対化し、脱中心化しています。彼らはヨーロッパの思考の絶対性を拒否します。お気づきでしょうが、啓蒙主義は無知な民衆に知識を与えれば、盲信から解放されるという素朴な発想ではありませんし、たんなる進歩的思想でもありません。

 「このような啓蒙を成就するに必要なものは、実に自由にほかならない」とするイマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、『啓蒙とは何か(Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung)(一七八四)において、啓蒙について次のように述べています。

 

 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間が自ら招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。()この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。

 

 啓蒙は、このケニヒスベルク大学教授によれば、個々人が自律的に知識を学ぼうとする態度です。知識人が無知な民衆を指導することではありません。「理性の公共的使用」によって社会全体にその啓蒙がもたらされるのです。「ここで、私が理性の公共的な使用というのは、あるひとが学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのは、こうである、――公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである」。「公共体の利害関係を旨とする多くの事業においては、その公共体を構成する人たちのうちの若干に、あくまで受動的な態度を強要するようなある種の機制を必要とする」。税務署員が生活のために徴税の仕事をしているのは理性の私的使用であり、税金制度の問題点について議論し、書物を通じて公衆に訴えるのこそ理性の公共的使用です。いくら既存の税金制度に疑問があっても、上司からの命令に従わなかったり、自分が支払う際に、拒否したりすることはそれにあたりません。しかし、このルソーの信奉者は、同じ年に著わした『世界公民的見地における一般史の構想(Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht)』において、人間には「非社交性」があり、敵対関係を持っており、制度を構築しなければ、他者と共存できないと考えています。自由に悟性を発散させるだけでは、目的の王国は地上のものとはならず、制度によって、悟性を制限しなければならないのです。個々人が引きうけることをできるなら、人間の自由が開かれるというわけです。

 「人間が自分の未成年状態から抜け出ること」という比喩は不適切ですが、カントはサロンというネットワークから派生したにもかかわらず、公衆がクラブ化していくのを見越していたのかもしれません。「その年齢の知恵を持たないものは、その年齢のすべての困苦を持つ」(ヴォルテール)。クラブの内部で語ることは理性の私的使用であり、その外部に向かって話す姿勢が公的使用に相当します。公衆が生まれるまで、公私は、場所によって、区別されます。王の前に参上するときは公的であり、自室に一人でいれば私的です。しかも、それは貴族にしか適用されません。商人や農民にはないのです。公がいかなるものであったかは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラを鑑賞しても、知ることができます。近世のスペインが舞台の『ドン・ジョバンニ』において、貴族のドン・ジョバンニは大股で歩き、農民のマゼットはチョコチョコしていますが、その違いは前者が公人であり、後者が私人であることを表わしています。さらに、この貴族が重心を自分の真下に置いて立っている時は公的立場にあることを表象し、どちらかいずれの足に体重をかけている場合は、自室や欲望と戯れる場などの私的空間にいることを意味します。農夫にはこうした立ち方の差異はありません。封建時代、広場や劇場、市場、宗教施設など人が集まる場所が公共の場です。日本各地に点在する人の寄りつかない官立のホールや保養施設などは、当時の人にすれば、その名に値しません。この事情が変容したのが啓蒙主義です。公が身分から解放され、一般の民衆にまで拡張されていきます。啓蒙主義は公が民主化された時代です。私邸で開かれるサロンは公私が入り混じった場です。社交術はそういった空間で磨かれます。個人としてサロンに参加するからです。公衆はただ教会や国王が言うことを鵜呑みにしたりはしません。知識欲を持ち、自発的に、本を読み、手紙を書き、議論する存在です。公共性は、啓蒙主義において、開かれた社交・情報への意志にほかなりません。ところが、公衆は個人ではない以上、社交になれていません。ただ、公衆は抽象的存在ですが、国民ではありません。公は公衆という人々の元にあり、まだ国家と結びついていないのです。

 啓蒙主義がフランス革命の理念「自由・平等・友愛」を用意し、それが近代政治思想の基礎となります。文芸共和国は自由で平等な個人による友愛のネットワークを基礎にしています。公と共は必ずしも一致しませんでしたが、啓蒙主義において、両者がつながったのです。自由と平等への志向により、近代的な個人が出現し、その個々人を結びつける友愛に基づく共の意識が生まれます。自由で平等な個人による友愛の精神が公共性です。フランス革命で端的に示された自由・平等・友愛は近代政治思想の基本的なイデオロギーになっていきます。

 公共性は多数派の横暴ではありません。ヴォルテールの行動が示している通り、尊厳を軽視する多数派による不当な抑圧には、異議を申し立てることこそが公共的な姿勢です。公共性は尊厳の問題に帰着すると言っていいでしょう。それは量ではなく、質の価値への意志です。

 もちろん、現代社会は、一八世紀とは違い、複雑化し、人々は多くの思いもがけない社会的ジレンマに囲まれていますから、公共性への意志を持って生きたいと思っても、その願いを裏切ることをしてしまうのも少なくありません。地理的に遠く離れた先進国の消費者に向けられたエビ養殖により、東南アジアのマングローブが危機に陥っています。こんな時代には伝統的な大きな道徳の出る幕はなく、大きなものに安易に同調しないで、尊厳を尊重し、多様性と差異性を認め、開かれて、そうしたジレンマをその都度自分のできる範囲で考えて行動していくほかありません。テオドール・W・アドルノはそうした姿勢を「ミニマ・モラリア(minima moralia)」と呼んでいます。現代社会の公共性は、多様性・個人性・グローバル性を踏まえた上で、社会的ジレンマへのモラル・ジレンマ的姿勢が欠かせないのです。

 理性の使用の公私の区別は、カントに従うことなく、もしくはカントを十分に理解するならば、再考しなければなりません。理性の公的使用はサロンを開かせ、機能させる行為であるのに対し、私的使用はサロンを閉じらせ、クラブ化させる行為なのです。公私は開閉の観点から考察すべきではないでしょうか。「私」は閉じられ、「公」は開かれています。それは啓蒙主義では当たり前です。サロンの非平衡性を維持することが理性の公的使用です。知や社交の非平衡性が啓蒙主義にほかなりません。素朴な知の自治ではないのです。啓蒙主義は非平衡思想にほかなりません。

 積極的な知への意志、知の自治というカントの啓蒙主義はドニ・ディドロが体現しています。O・ヘンリー(O. Henry)は愉快な短編『ゴム族の結婚(The Rubber Plant’s Story)』の中で野次馬を皮肉っていますけれども、啓蒙主義者たち旺盛な野次馬根性の持ち主です。もし現代を生きていたら、彼らはパパラッチに追いかけ回されていたことでしょう。啓蒙主義者は「自由精神」、すなわち「自分自身を再びわがものとした自由になった精神」(フリードリヒ・ニーチェ『この人を見(Ecce Homo)よ』)の持ち主でしょう。大学卒業後、見習いとしてクレマン・ド・リの法律事務所で働いていたディドロは、将来どんな職業につくつもりなのかと彼に尋ねられた際、「実を言えば、何にもなりたいと思わないんです。全然何にもなりたくありません。勉強がしたいんです。私は今のままで十分で、何の不足もありません。ほかには何も欲しくありません」と答えています。彼は定職につかず、ぶらぶらし、父親の知り合いを見つけては借金をして、カフェに入り浸り、女性と遊んだり、知識を仕入れたりしています。ディドロはニート、あるいはボヘミアンです。堂々としたものです。そんな彼ですから、現代的な問題意識を持っています。『ラモーの甥』(一七六一)や『ダランベールの夢(Le rêve de D'Alembert))(一七六九)、『ブーガンヴィル航海記補遣(Supplément au voyage de Bougainville))(一七七二)など不思議な官職の作品を書き、田舎に引っこんだ友人の貴族をパリに呼び戻すために、うった一芝居を『修道女(La religieuse)(一七六〇)という小説にしています。俳優の身振りに関心をよせ、耳を閉じて台詞を遮断してよく観劇することの重要性を説き、『聾唖者書簡(Lettre sur les sourds et muets)(一七五一)において、現代的な演技に向けて、パントマイムに着目しています。さらに、『盲人書簡(Lettre sur les aveugles à l'usage de ceux qui voient)(一七四九)も著わし、障害者の問題をよりとりあげています。『私生児に関する対談』では、純粋な善玉・悪玉として文学作品は描くのではなく、両者が入り混じり、時間と共に変化する精神状態を職業・家族関係において扱わなければならないと主張しています。ディドロが、『百科全書』の「人間」の項目において、「社会に生き、科学と技法を発明し、自己に固有の善良さと邪悪さを持ち、主君を持ち、法律をつくりだした存在」と書くのも当然でしょう。

 啓蒙主義を代表するのは『百科全書(L'Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres)』でしょう。このドニ・ディドロ(Denis Diderot)とジャン・ル・ロン・ダランベール(Jean Le Rond d'Alembert)らが中心となって編集し、一七五一年から七二年まで二〇年以上かけて完成した百科事典です。本文一七巻と図版一一巻による全二八巻構成で項目数は六万に及び、その後補巻・索引も発行されています。ダランベールは、『哲学基礎論(Essai sur les éléments de philosophie)(一七五九)の中で、当時のフランスの精神史的状況について、「世俗的な学者の原理から宗教の啓示の根拠に至るまで、形而上学から趣味の事柄に至るまで、音楽から道徳に至るまで、神学者のスコラ的論議から交易の品物に至るまで、王侯の権利から人民の権利に至るまで、自然法から諸国家の勝手気ままな法に至るまで……ありとあらゆるものが議論され、分析され、あるいは少なくとも問題にされた」と記しています。百科全書の出版は、イギリスのエプレイム・チェンバース(Ephraim Chambers)による『百科事典(Cyclopaedia)』(一七二八)に刺激され、企画されています。啓蒙主義は、実は、二番煎じです。カントは啓蒙を自律した思考と見なしていますけれども、これは責められるべきことではありません。ただ、『百科事典』はチェンバースが単独で執筆・編集したため、多数の不備や誤解。曲解が含まれています。そこで、フリーメーソンの幹部たちが組織の構成員に向けて協力を飛びかけ、より完成度の高い百科事典の刊行を企てますが、結局、実現しません。『百科事典』に注目したフランス在住のイギリス人ジョン・ミルズ(John Mills)はフランス語への翻訳をパリの王室公認の出版業者であるアンドレ・ル・ブルトン(André Le Breton)へ持ちかけたのですが、ミルズはフランス国内の出版法を知らなかったため、ル・ブルトンへ相談したのですけれども、彼が王室発行の特許を自分の名前でのみ取得してしまい、両者の間でもめているうちに、特許が失効してしまいます。ル・ブルトンは、一七四五年五月、『技術と科学に関する普遍的な百科全書(Encyclopédie ou dictionnaire universel des arts et des sciences)』という宣伝が出され、チェンバースの『百科事典』内の記述の誤りを正し、新たに発見された項目を追加するために、フランス科学アカデミーの哲学教授ジャン・ポール・ド・グワ・ド・マルヴェース(Jean Paul de Gua de Malves)が任命されます。マルヴェースは全体的な改訂と大勢の編集助手・執筆者を参加させることを提案し、その中に当時ほぼ無名だったディドロやダランベールが含まれていたのです。けれども、ル・ブルトンはコストと執筆者の知名度の低さを理由に反対しています。編集作業が開始されたものの、相次ぐトラブルにマルヴェースは嫌気がさして、辞任してしまいます。困ったル・ブルトンは後任にディドロを選びます。新編集長はル・ブルトンらを翻訳ではなく、自分たちが執筆した百科事典を出版しようと説得し、合意に達します。ただちに、ディドロは共同編集者として、ダランベールを任命しています。ディドロが執筆した『百科全書趣意書』(一七五〇)によれば、これは、「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つような」事典です。これは技術的・科学的な知識の最先端を集め、古い世界観を打破し、合理的で自由な思考を人々に促すというわけです。企画段階から王室や教会と緊張関係にあり、その刊行自体に政治的な意味を持っています。総執筆者は一八四人にも及び、一七世紀生まれから一九世紀に亡くなった者までいます。一七五九年、『百科全書』の出版許可が取り消され、ドルバック男爵らの協力の下、ディドロは非合法的に編集作業を続け、一七六五年、刊行が再開されています。ただ、発売禁止を恐れたル・ブルトンが改竄していたのを知り、ディドロは怒り狂っています。初版の発行部数は四二五〇部です。最近の講談社文芸文庫の諸般の発行部数が四〇〇〇部ですから、この数字は驚異的です。予約購買者層は新興のブルジョア階級で、これはフランス革命の推進派とも一致しています。御承知の通り、『百科全書』刊行への過程はタブロイド紙が喜びそうな裏話に満ちています。

 『百科全書』の順序はアルファベット順です。神は頂点にはありません。神も、人間も、犬も同列に扱われるのです。「こうして、ヴォルテール、ディドロ、そしてダランベールの手によって、フランス百科全書がつくられたのだが、それは百学をひとつのサイクルに統合しようとするものだった。しかしながら、時代はまだ成熟していなかった。それどころか、十九世紀の秩序ある分断がその後に来るのである」(森毅『数学の歴史』)。地球が球であることの実証が、ですから、『百科全書』には重要なのです。『百科全書』はどこから読んでもかまいません。すべては読者の必要に委ねられているのです。一人で最初から最後まで通して読まれることを期待していませんし、個人所有よりも、共有され、必要に応じて横断的に使われるものです。『百科全書』は共同プロジェクトであって、「世紀とともに、英雄時代は終わった」(ニコラ・ブルバキ)。ルネサンス期はレオナルド・ダ・ヴィンチのような「万能人(homo. universaris)」の時代でしたが、啓蒙主義では、チーム・ワークで「万能」を行うのです。当然、軋轢もあります。一七五七年にダランベールが「ジュネーブ」の項を執筆すると、あの時計職人の息子がそれに反発して作業から降り、五九年、王権からの圧力にうんざりしたダランベールも責任編集者を辞退しています。ディドロに同情こそすれ、うらやましいと思うものはいないでしょう。文体の統一は、それぞれの領域特有の文体や執筆者特有の文体もあり、不可能です。ただ「純粋性と明晰、正確」という点においては、各項目とも共通しています。ヘーゲルは百科全書を一人でつくろうとしましたが、トマス・アクィナス流の秩序を復活させてしまいます。ヘーゲルの大著『哲学概論としてのエンチクロペディー()Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften』は彼の哲学を知るために、読むのであって、事典としてはとても使えません。その最大の意義は、どんなに体系的で包括的であっても、もはや百科全書執筆は個人の手にはあまるもと示した点でしょう。彼以降、ですから、大きな哲学は登場できません。啓蒙主義は、むしろ、小さな哲学の集積です。しかも、『百科全書』にはイラストが盛りこまれています。視覚にも直接的に訴えるのであり、感覚の拡大でもあるのです。

 ディドロは、『百科全書』第五巻の「百科全書」の項目において、それを次のように説明しています。

 

「百科全書」の目的は、地上に散在している知識を集成することである。知識の一般的体系を同時代の人間に提示するとともに、未来の人間にもこれを伝達することである。このようにして、過ぎさった時代の業績が、きたるべき時代に無用のものとならないようにしたい。われわれの子孫が、より多くの知識を獲得すると同時に、より有徳でより幸福になるようにし、またわれわれ自身が人類にふさわしいことをしおえたのちに死んでいくようにしたい。

 

 この無神論者は神という言葉をまったく使っていません。それまで知識追及は神の意思を知ることでしたが、啓蒙主義者にとって思考は知識・知恵の自治です。手段にすぎない学問はそれ自体が目的になっていくのです。知識のすべてを統括するのはもはや神ではなく、啓蒙主義者の中で最も一九世紀的なダランベールの『百科全書』の学問の分類法によると、悟性です。彼は悟性の下に、理性・記憶・想像を置いています。理性の扱う分野は哲学、すなわち神・人間・自然に関する学問です。記憶は歴史、すなわち神・教会・人間・自然の歴史を扱いますが、この自然の歴史には工学的な自然の利用も含まれているのが特徴的です。想像は芸術全般を指します。ダランベールの『百科全書序論』によれば、『百科全書』には、「人間の知識の秩序と連関を可能なかぎり明らかにすべきこと」、ならびに「それぞれの学問につき、また知的なもの手職的なものの区別を問わずそれぞれの技術について、その基礎をなす一般的諸原理と、さらにその形態および実体を形成する最も本質的な細目を含むべきこと」という二つの目的があります。『百科全書』の脱落は、普通の辞典の場合、不完全さを意味しているにすぎませんが、項目相互の「連関を断ち、形態と本質を損なう」。『百科全書』作成において、認められていた以上の資料の公開性がなければ、それは不可能です。『百科全書』には日本に関する記述も、思った以上に多く、ディドロ自らが「日本人」の項目を執筆しています。『百科全書』は言語に関してかなり入念に記述されている通り、世界中からヨーロッパに情報が伝わってくる環境が整備されていたのです。

 「ダランベールの序文に始まる百科全書は、十九世紀専門主義の破綻の現代、新しい感慨とともに読まれる。もちろん、二百年前のことだから、その誤りなどを探すことはたやすいことだが、現代における百科全書的精神の復権こそ求めるべきだろう」(森毅『女たちの森の中で─ダランベール』)。二〇世紀は集団的匿名の時代です。一九世紀、アルフレッド・ノーベルのような卓越した個人が新製品を発明しましたが、二〇世紀になると、企業内でプロジェクト・チームが結成され、研究開発が行われるのです。マンハッタン計画(The Manhattan Project)は個人では実現不可能です。しかし、集められた面々は必ずしも過去に輝かしい業績を残しているわけではありません。故リチャード・P・ファインマン(Richard Phillips Feynman)教授は、来日の際、「不敗魔」と自己紹介する人物ですから。どこかイカサマっぽい雰囲気と面白さのために、呼ばれています。サロン型のネットワークによる共同プロジェクトなのです。と同時に、啓蒙主義者が専制君主に使い捨てられたように、始まった計画はレオ・シラード(Leo Szilard)などメンバーの一部がとめたにもかかわらず、続行されてしまうのです。二〇世紀は一九世紀が抑圧した一八世紀を発展させています。

 特に、一九七〇年代に入って、専門的な研究は完全に行き詰ってしまいます。その打開策として、各領域が相互浸透し始めたのです。自立した純粋な学問領域はもはやありません。それは学問におけるサロンの復活であり、現代の研究者は百科全書派たらなければならなくなったのです。

 各項目が完全に分離しているわけではありません。ある項目の説明の中で別の項目を参照することは促すことがあるのです。項目の数は、新たな単語が入り、変化していきます。この変化はアルファベット順が要求するものであり、必然性はありません。使いやすさだけです。この配置は事項の相互関連を無視することを意味し、記号的差異に基づいているのです。英語で言えば、Godのスペルを逆さまにするとDogSanta のスペルの一部を入れ替えるとSatan となるのもただの偶然でしかありません。「一般に人間は犬に似ている。他の犬が遠くで吠えるのを聞いて、自分も吠える」(ヴォルテール)。エルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer)博士は、『啓蒙主義の哲学(Die Philosophie der Aufklärung)(一九三二)において、一七世紀から一八世紀への哲学の転回を「体系の精神」から「体系的精神」への移行と把握しています。カッシーラー博士の命名は、必ずしも、適切ではありません。森毅教授は、『数学の歴史』の中で、一七世紀を「原理」の世紀、一八世紀を「事実」の世紀、一九世紀を「体系」の世紀、二〇世紀を「方法」の世紀とそれぞれ呼んでいます。「つねに野心に満ちた貴族たちの罪と、自由と平等しか望まず、また望むことしかできない庶民の罪との間には、いかなる比較もありえない。この平等と自由という二つの感情は、中傷や略奪、暗殺、毒殺、隣人の土地の蹂躙に直接結びつきはしない。だが、尊大な野心と横暴な権力は、いついかなる場所でもそうした罪に落ちこんでいくのである」(ヴォルテール『哲学辞典』)。啓蒙主義は哲学を不変の体系の枠組みに閉じこめるのではなく、自由に振る舞う活動であって、それを通じて、現実の根源を顕在化させるのです。一七世紀の天才たちはアイデアがあっても、コンセプトはありません。啓蒙主義者は累積した事実を原理に基づいて、概念化しています。彼らは、そのため、形式において多彩なのです。一八世紀は一七世紀と一九世紀の狭間にあり、一七世紀を概念化し、一九世紀を用意したとも言えるのです。一七世紀が「天才の世紀」、一九世紀が「ブルジョアの世紀」と呼ばれるのに対し、一八世紀が「ヴォルテールの世紀」と命名される点もそれを特徴づけています。一七世紀が卓越した天才たちが輝き、一九世紀がブルジョアジーが階級として前進したとすると、一八世紀はブルジョア的思考を持った個人が表象しているのです。「一八世紀とは奇妙な時代であって、すべての像が二重に映る」(森毅『数学の歴史』)

 ゲーテはそうした時代の二重性──同時に、東西文化の融合という二重性も意味しているのですが──を『銀杏の葉(Ginkgo Biloba)(一八一五)という次のような詩で表現しています。

 

Dieses Baums Blatt, der von Osten

Meinem Garten anvertraut,

Gibt geheimen Sinn zu kosten,

Wie's den Wissenden erbaut.

 

Ist es ein lebendig Wesen,

das sich in sich selbst getrennt?

Sind es zwei, die sich erlesen,

dass man sie als eines kennt?

 

Solche Frage zu erwidern

fand ich wohl den rechten Sinn;

Fhlst du nicht an meinen Liedern,

dass ich eins und doppelt bin?

 

 「物理学に起こったことがやがて歴史の書き方にも起るであろう」と『歴史に関する新考察』(一七四四)で言うヴォルテールは、史上初めて、哲学史を「歴史哲学」と命名しています。しかし、それはナポレオン・ボナパルト将軍の信奉者が記した『歴史哲学(Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte)』、すなわち歴史の哲学とは異なっています。歴史と哲学の相関性論じていると言ってよく、体系的ではありません。事実の並列的累積なのです。近代歴史学とも違い、国家を絶対視する歴史観もありません。

 ヴォルテールは、『歴史哲学(La Philosophie de l'histoire)(一七六五)の中で、古代ローマの滅亡の原因につい次のように記しています。

 

皇帝たちの気弱さ、その大臣と宦官の手におえない対立抗争、キリスト教内部に生じた流血にまみれた紛争、武術鍛練に取って代わる神学論争、武勇に取って代わる無気力、農民と兵士に入れ替わる大勢の修道士の存在、こうした一切が蛮族たちを呼び寄せたのである。尚武の共和国にかつては打ち勝つことのできなかったあの同じ蛮族が、かくて残忍で女々しき信心三昧の皇帝たちのもとで衰弱しつつあったローマを壊滅させたのである。

 

 ヴォルテールは原因をただ並列し、滅亡との因果関係を分析していません。ヘーゲル流の目的論が入りこむ余地がありません。と同時に、原因と結果によるライプニッツ的表出でもないのです。

 ヴォルテールは、『哲学辞典』において、「出来事の連鎖」について次のように述べています。

 

誤解のないように意見をまとめておこう。永遠という深遠のなかで、原因から原因へとさかのぼってみると、あらゆる結果には明らかにその原因がある。だがあらゆる原因に結果があるとはかぎらない。数世紀の後まで時の流れを下っても、それがあるとはかぎらない。あらゆる出来事は相互的に生み出される、ということは私も認める。過去が現在を生んだとすれば、現在は未来を生む。あらゆるものに父親があるが、あらゆるものに子供があるとはかぎらない。これはまさに系統樹そのものである。だれでも知っているように、どの家でもさかのぼればアダムに至るが、その家族のなかには、子孫を残さずに死んだ者も多いのである。

 

 ヴォルテールは原因と結果の同一視を嘲笑します。一つの原因から多数の結果が出現し、無数の原因から一つの結果が顕在化することもあるのです。彼は歴史の連続性に同意しません。これはフリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の系譜学の先駆的認識です。

 こうした思考に基づき、ヴォルテールは、『哲学書簡』において、イギリスの宗教事情について次のように疾走します。

 

ルター、カルヴァン、ツヴィングリなど読むに耐えない著者たちがヨーロッパを分かつ宗派を創始し、無学文盲のマホメットがアジアとアフリカに宗教を授けたというのに、ニュートン、クラーク、ロック、クレリクスなど当代最大の哲学者にして最高の著述家たちがわずかばかりの信者を集めたものの、日ごとに数が減ってゆくというのはおかしなことではないか。

これは潮時に生まれることがいかに大切であるかを物語っている。もし枢機卿が今日再び現れたとしても、パリで十人の女さえ反乱を起こす気にさせないであろう。

もしクロムウェルが再び生まれてきたとしても、王を斬首に処し自ら主権者となったクロムウェルにしても一介のロンドン商人と言ったところであろう。

 

 このようにヴォルテールは宗教から政治、さらに商業へ次々と目を転じます。ヴォルテールの文章は目まぐるしく移動します。発展性はなく、駆けぬけていくだけです。この速度はフランス革命という凄まじい変化を予感させます。盲信を批判する能力です。盲信が支配する世界をヴォルテールは批判するのであって、神を否定しているのではないのです。彼のみならず、啓蒙主義の信じる理性は、作品の形式・構成を考慮すると、現代的には、グロテスクでしょう。秩序と混沌が入り混じっています。それは事実をいかに説明するかではなく、事実を含む世界の構図化の試みです。理性は知的快楽を追求するのです。真面目くさったものではありません。盲信のほうがくそ真面目で、この原理をないがしろにするニヒリズムにすぎません。コスモスとカオスは対立概念ではなく、故フェリックス・ガタリ(Félix Guattari)医師が『カオスモーズ(Chaosmose)(一九九〇)で主張しているように、相互に浸透しています。これを二項対立とする盲信を批判するのが理性の役割でもあるのです。

 こうしたヴォルテールが理性を最も発揮しているのが、言うまでもなく、風刺小説『カンディード、あるいは楽観思想(Candide ou L'optimisme)(一七五九)です。一八世紀、無限の善である神によって創造された以上、あらゆる悪徳に満ちていたとしても、この世界が可能的世界の中で最善であるという楽観主義がゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)の亜流によって主張されています。けれども、これは悲観主義と表裏一体です。悲観主義であれ、楽観主義であれ、いずれにせよ硬直した未来観をヴォルテールは代表作『カンディード』において批判するのです。サロン主義の傑作『カンディード』は一八世紀の『アトミック・カフェ(The Atomic Cafe)』であり、『華氏911』です。彼がもし今生きていたら、映画を撮っているに違いありません。一八世紀、ライプニッツの思想は『弁神論(Essais de Théodicée)(一七一〇)の楽天主義として知られています。イギリス古典主義に属するアレキサンダー・ポープ(Alexander Pope)は、この楽観論を踏襲して『人間論(An Essay on Man)(一七三三─三四)を著します。これは四つの書簡という形式の哲学詩です。“A little learning is a dangerous thing; Drink deep, or taste not the Pierian spring" (Alexander Pope “An Essay On Criticism" ).かの桂冠詩人は、最初、匿名で出版し、評判になった後、自分の著作であると明かしています。モナドロジーの哲学者の叙述はいささか冗長で理解しがたかったため、彼の意見がその難解な思想の要約として認識されてしまうのです。

 ヴォルテールも退屈な著作を読んでいません。この素朴な解説書を通じて、ライプニッツ思想を受けとっています。帰国が許可されなかったため、欧州各地を転々とした後、一七五五年、ジュネーブ郊外に「快楽荘(Villa des Délices),)」を購入しています。彼らしいネーミングです。知ってらっしゃると思いますけれども、この年の一一月に起きたリスボンの大震災を『リスボンの災禍についての詩(Poème sur le désastre de Lisbonne)(一七五六)にし、悲惨な現実を見ない楽観主義を批判していたヴォルテールは、『カンディード』で、さらにその姿勢を明確にします。ライプニッツ派の固定し、閉じられた世界観がクラブ的であり、ヴォルテールには許しがたいのです。

 ヴォルテールは、驚くことに、五〇歳をすぎてから、小説を書き始めています。小説は、実は、上流階級の人々の間では下品なものと見なされていたのです。一八世紀の文学はヴァリエーションに富んでいます。中でも、具体的な読者に向けて書く書簡形式が流行しています、ヴォルテールが小説を書き始めたのは公衆が登場したからです。この段階では、あくまで公衆のための文学です。『カンディード』は近代小説と違い、諷刺です。特に、古代ローマのルキアノスの『本当の話』以来の伝統がある「メニッポス的諷刺(Menippean Satire)」と呼ばれるジャンルに属しています。諷刺は、近代小説がクラブ的文学とすると、サロン的文学です。開かれ、ありとあらゆるものが入りこんできます。非平衡姓を持っています。諷刺は、対象を肯定するにしろ、否定するにしろ、それを単純化してしまう傾向があり、粗雑な反知性主義に帰着しかねませんから、知性が不可欠なのです。彼のためにトロント大学英文学科が創設されたというエピソードの持ち主である故ノースロップ・フライ(Herman Northrop Frye)教授は、大著『批評の解剖(Anatomy of Criticism)(一九五七)において、こう言っています。「知的主題や知的態度を扱うメニッポス的風刺家は、知的なやり方で充益ぶりを示す──当面の主題について膨大な博識をつみ重ねたり、また衒学的な敵どもに対しては、彼ら自身の専門語を雪崩のように浴びせることで圧倒するのである」。この偉大な教授は、「史上最高のピアニスト」との誉れが高い故グレン・グールド(Glenn Herbert Gould)氏や「高度消費社会の予言者」とも呼ばれる故マーシャル・マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan)教授、引退時に六一のNHL記録を持っていたウェイン・グレツキー(Wayne Douglas Gretzky)氏と並んで、カナダのナショナル・トレジャーで、切手にも描かれています。諷刺は百科全書的な知性とユーモア、自由な精神の産物にほかなりません。他方、小説は国民国家体制の成立と共に、近代小説として国民文学の地位を獲得し、他のジャンルをすべて抑圧していきます。ジャンルという違いは近代小説の中に同化させられるのです。

 『カンディード』はアイロニーとウィット、エスプリ、ユーモアに溢れ、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(Miguel de Cervantes Saavedra)の『ドン・キホーテ(El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha)』やジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)の『ガリヴァー旅行記(Gulliver's Travels)』の系譜上にある諷刺文学です。それは、代表的教養小説であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(Wilhelm Meisters Lehrjahre)』(一七九五─九六)ならびに『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代(Wilhelm Meisters Wanderjahre)(一八二一─二九)に比べると、発展性に欠けます。ゲーテの段階では、成長する知性はまだ体系化されていませんが、そこから知識の発展性と体系化というヘーゲル哲学まではもう一歩です。The end justifies the means.

 『カンディード』は日本のコミカルな少女マンガにしても面白そうなのですが、ミュージカル『キャンディード』として一九五六年に舞台化され、ブロードウェイを始め世界各地で上演されています。音楽は レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein) が担当し、中でも序曲が有名です。作詞は、主に、リチャード・ウィルバー (Richard Wilbur) が書き、スティーヴン・ソンドハイム (Stephen Sondheim) らによって補筆されています。最近のブロードウェイはミュージカル一食です。このジャンルは近代的なリアリズムに従っているわけではなく、諷刺の要素があります。ミュージカルの盛況は諷刺の復活と言えるでしょう。

 

Is it this, the meaning of my life,

The sacred trust I treasure,

Nothing more than this?

All of my hope and pleasure,

No more than this?

 

The love I dreamed and cried for,

Nothing more than this?

All that I killed and died for,

No more than this?

 

That smile, that face, that halo around it,

That youth, that charm, that grace,

Behold I have found it,

Nothing more than this,

No more than this.

 

What did you dream,

Angel face with flaxen hair,

Soul as dead as face was fair?

Did you ever care?

 

Yes, you cared for what these purses hold,

You cared for gold, you cared for gold.

Take it for my kiss, my bitter kiss,

Since it was this you wanted,

No more than this.

(Richard Wilbur “Nothing More Than This”)

 

 「無邪気(Ingenuous)」や「素朴(Naive)」の意味がある主人公カンディードは大きな城の中で、城主の縁者として、哲学者バングロス(Pangloss)の教えを忠実に受けとめ、心やさしく成長します。

 パングロス師はカンディードに次のように説いています。

 

 すべてのものは何らかの目的あって作られているのだからして、必然的に最善の目的のためにある。(略)石は切って城を建てるために形作られている。ゆえに御前は見事なお城を持っていなさる。この地方で最もえらい語領主が最も良い館に住まわれるのは理の当然なのだ。してまた豚は食うために作られているのだからして、われらは年中豚を食う。かるがゆえに、すべては善しと主張したのでは愚昧である。すべからく一切万事最善であると申さねばならぬところだ。

 

 けれども、ある日、城の美しいキュネゴンド(Cunégonde)姫との抱擁を城主に見られ、城を追い出されてしまいます。カンディードは世の中の不正や悲惨に直面します。天真爛漫で少々おめでたい彼はバングロスに再会した後も、信念を曲げません。この師匠は溺れている人を助けようとしたカンディードをとめ、「リスボンの入江はこのアナバプティストが溺死するように特にできているのだ」と「アプリオリに証明」してしまう有様です。その後、マニ教(Manichaeism)を信奉する厭世主義者マルチン(Martin)と出会います。彼らはさまざまな問題をめぐって哲学的議論を続けます。この間に、キュネゴンド姫は城を襲った輩に家族を殺され、陵辱されて、男たちの間を転々とする身に陥ってしまいます。カンディードはキュネゴンドとめぐり逢い、すったもんだの挙げ句、二人は結ばれます。最後にカンディードは次のような結論にたどり着きます。

 

「いかにもおっしゃる通りです」とカンディードは答えた。「何はともあれ、わたしたちは畑をたがやさねばなりません」。

 

 『カンディード』は、真の作者はほかにいて自分はこれを紹介しているだけだという設定になっています。「ラルフ博士のドイツ語文からの翻訳ならびに一七五九年に死去の際そのポケットから発見された追補分も含んでいる」。諷刺は直接的批判方法ではなく、間接的批判方法です。諷刺は何かに代理してもらわなければなりません。啓蒙主義者の中で、最もアカデミックだったダランベールにしても、無神論者のために、三度落とされた上で、入会したアカデミーにおいて、追悼演説の度に、死者を讃えるよりも、生聖者を諷刺することに関心を寄せています。啓蒙主義は諷刺の哲学なのです。

 森毅教授は、『人は一生に四回生まれ変わる』の中で、次のような譬話をしています。

 

 キクイムシはその名の通り、木を食べているように思われるが、実はそうではない。木の繊維はものすごく消化が悪いからである。

 だから食べているのではなく、ただいたずらに穴をあけるだけ。では穴をあけてどんないいことがあるかというと、そこに隙間ができる。その隙間にキノコのカビがはえる。キノコのカビが木を消化して、キクイムシはそれを食べる。

 

 人間と人間の間には、隙間がある。これは他者の定義みたいなもので、親子であれ夫婦であれ、別の人格だから隙間があるのは当然だ。そのすきまにはえるカビみたいなものが言葉であって、言葉を食べるから自分が育つと考えたほうがいい。

 キクイムシの話を聞いて、ぼくはそう思った。だから、キクイムシの話はとりわけ気にいっている。

 

 ヴォルテールはこの「キクイムシ」です。近代は、封建制社会が宗教に対してそうだったように、あまりに自己を盲信しすぎています。彼は自己も相対化するのです。多種多様な形式で表現したヴォルテールですが、唯一告白だけは採用していません。告白をしないのです。「諷刺は、誰の顔でも映すが、自分の顔は映さない一種の鏡である」(スウィフト『書物合戦(The Battle of the Books))。文学はヴォルテールの創作とは逆の方向に進んで生きます。告白は近代において中心的な文学ジャンルになっていくのです。告白を通じた権力との共犯関係によって自らのアイデンティティを確認し、保証させます。故ミシェル・フーコー(Michael Foucault)コレージュ・ド・フランス教授は、『知への意志(La volonté du savoir)(一九七〇─七一)において、「権力は下からくる。──すなわち生産の機関、家族、局限された集団、諸制度のなかで形成され作動する多様な力関係が、社会全体を貫く多大な分裂の結果に対する支えとなっているのだ」と言っています。書簡体小説『ジュリー、あるいは新エロイーズ(Julie ou la nouvelle Héloïse)』(一七六一)や諷刺『エミール(Emile ou de l'éducation)』(一七六二)を書いていたルソーの『告白(Les Confessions)』が死後の一七八二年に刊行されて以来、内向的な文学が読者に受容されていますが、それには自己と他者の共通性が自明となっていなければなりません。外向的な諷刺文学に代わって、告白文学が人気を得ていきます。しかし、それはパーソナルなコミュニケーションではなく、画一的なメディアによって成立しているのです。けれども、今、ネットの普及などによってパーソナル・コミュニケーションが見直されています。ヴォルテールの作品には。二〇世紀後半の知的営みの先取りがあちこちに見られ、彼について考えることは現代の再考につながるのです。諷刺の復活こそ望ましいのではないでしょうか。ヴォルテールは、ギルガメシュ叙事詩の冒頭の語句に倣うと、「Sha Nagba Imuru(すべてを見たる人)」です。「一人ならずの者が、おそらく私と同じように、顔をもたないために書いているはずです。私が誰であるのかを尋ねないでください。私にいつも同じ状態でいろと言わないでください。そのように尋ねたり、言ったりするのは戸籍の道徳であり、それがわれわれの身分証明書を支配しています。書くことが問題であるとき、われわれはこの道徳から自由になるべきでしょう」(ミシェル・フーコー『知の考古学(L'Archeologie du savoir))

 「灯火はそれ自身を照らすものではない。(灯火のなかには)闇が存在しないから。逆もまた可能になるから、闇もそれ自体を覆うものとなるであろう」(ナーガールジュナ『ヴァイダリヤ論』)。それをよく知っていたヴォルテールは、中東を舞台にした小説『ザディーグ(Zadig)(一七四七)の中で、二つの問いを提出しています。「この世のあらゆるものの中でいちばん長くそしていちばん短くいちばん早いがいちばん遅くもあり、いちばん小さく分割できながらいちばん広大であり、いちばん粗末にされながらいちばん惜しまれ、それなくしては何も成し遂げられずどんな小さなものでも滅ぼし、どんな大きなものにでも生命を与えるものは何か」。「礼も言わずに受け取り、どうすればよいか知らぬままに楽しみ、我を忘れて他人に与え、気がつかぬうちに失っているものは何か」。第一問の解答は「時」、第二問は「人生」です。難しいクイズではありませんが、しかし、アウグスティヌスもこう言っています。「時間とは私がよくよく承知しているもの──それは何かと定義せよ、と言われるまでは」。この謎はヴォルテール自身を言い表しています。しかも、同時に、私たちのことであり、あなたのことにほかならないのです。「作家は生きているうちは諷刺され、死ぬと賞賛される」(ヴォルテール)

 

You walked into the party like you were walking onto a yacht

Your hat strategically dipped below one eye

Your scarf it was apricot

You had one eye in the mirror as you watched yourself gavotte

And all the girls dreamed that they'd be your partner

They'd be your partner, and...

 

You're so vain, you probably think this song is about you

You're so vain, I'll bet you think this song is about you

Don't you? Don't You?

 

You had me several years ago when I was still quite naive

Well you said that we made such a pretty pair

And that you would never leave

But you gave away the things you loved and one of them was me

I had some dreams, they were clouds in my coffee

Clouds in my coffee, and...

 

You're so vain, you probably think this song is about you

You're so vain, I'll bet you think this song is about you

Don't you? Don't You? Don't You?

 

I had some dreams they were clouds in my coffee

Clouds in my coffee, and...

 

You're so vain, you probably think this song is about you

You're so vain, I'll bet you think this song is about you

Don't you? Don't You?

 

Well I hear you went up to Saratoga and your horse naturally won

Then you flew your lear jet up to Nova Scotia

To see the total eclipse of the sun

Well you're where you should be all the time

And when you're not you're with

Some underworld spy or the wife of a close friend

Wife from a close friend, and...

 

You're so vain, you probably think this song is about you

You're so vain, I'll bet you think this song is about you

Don't you? Don't You? Don't you?

 

You're so vain, you probably think this song is about you

You're so vain, I'll bet you think this song is about you

Carly Simon "You’re So Vain”

 

 思いがけず、長くなってしまい、貴重な御時間を無駄にすごさせてしまったのではないかと少々心苦しく思っております。いささか筆が、正確には叩くキーボードが滑りすぎたようです。中には、誤解や曲解、不備があり、倣岸無知と御怒りになっているかもしれませんけれども、それは御陵謝ください。率直な御意見御感想をいただければ幸いです。それでは、これにて失礼致します。御身体に気をつけてください。

Amicalement,

tu fui, ego erisEcrlinf

 

PS

 

 Dicit ei Iesus: “ Iam noli me tenere, nondum enim ascendi ad Patrem; vade autem ad fratres meos et dic eis: Ascendo ad Patrem meum et Patrem vestrum, et Deum meum et Deum vestrum.

(“Evangelium Secundum Ioannem20:17).

 

 「復活というものはこの世で最も単純な事柄である。一度生まれるも二度生まれるも別に不思議ではない。この世はすべて復活である」(ヴォルテール『バビロンの王女』)

 

Felicidade foi se embora

E a saudade no meu peito ainda mora

E é por isso que eu gosto de fora

Porque sei que a falsidade não vigora

Felicidade foi se embora

E a saudade no meu peito ainda mora

E é por isso que eu gosto de fora

Porque sei que a falsidade não vigora

A minha casa fica de traz do mundo

Onde eu vou em um segundo quando começo a cantar

O pensamento parece uma coisa à toa

Mas como é que a gente voa quando começa a pensar

Felicidade foi se embora

E a saudade no meu peito ainda mora

E é por isso que eu gosto de fora

Porque sei que a falsidade não vigora

A minha casa fica de traz do mundo

Onde eu vou em um segundo quando começo a cantar

O pensamento parece uma coisa à toa

Mas como é que a gente voa quando começa a pensar

Felicidade foi se embora

E a saudade no meu peito ainda mora

E é por isso que eu gosto de fora

Porque sei que a falsidade não vigor

(Antonio Carlos JobimFelicidade”)

〈了〉

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